この3週間、外出を控えていたわたしは地獄から抜け出せずにいた。
「そんな大袈裟な!」と笑われるかもしれないが、侮るなかれ。これは比喩的な表現ではあるが、まざに地獄だ。そう、アニメ地獄である。
日本が世界に誇る伝統的文化の一つといえば、漫画とアニメ。ところがわれわれ日本人は、幼いころから当たり前に漫画やアニメに接しているため、その卓越したクオリティに対する感動を忘れてしまっている。
これはなんとも恐ろしいことである。
*
その昔、イタリアはフィレンツェを訪れた時のこと。イタリア語が分からないわたしは、学生が泊まる安いホテルの室内で、テレビのチャンネルを回していた。
せめてもの救いは、BBCやCNNといった英語のニュース番組が視聴できることだ。当時大学生のわたしは、かっこよく英語のニュースを見ながら寝落ちしようと決めた。
「&%$#”!=+(&#」
美人アナウンサーが神妙な面持ちでニュースを伝えているが、まったく意味が分からない。時たま聞こえてくる簡単な単語を拾い集めて、なんとか意味を理解しようとするも徒労に終わる。
(はぁ、いい加減に飽きてきたな・・・)
理解できない異国の言葉にうんざりしたわたしは、睡眠導入にふさわしいチャンネルを探し始めた。
そうだな、天気予報とかが無難だろうか――。
「イヌヤシャァ!」
思わずビクッとした。イタリアの貧乏宿のテレビから、日本語が聞こえてくるはずなどない。ましてや犬夜叉などというレアな単語が、発せられるわけがない。
恐る恐るテレビ画面を見ると、そこには見覚えのあるアニメーションが映っていた。そう、まさに「犬夜叉(いぬやしゃ)」だった。
わたしはこのアニメも漫画も見たことがないので、登場人物の名前は分からない。だが先ほどから、女性の声で「イヌヤシャ、イヌヤシャ」と叫んでいるのだけは確認できる。要するに、この白髪の人外が犬夜叉という名前なのだろう。
肌寒いフィレンツェの安宿で一人、わたしは必死に犬夜叉にかじりついた。これ以外にエンターテインメントもなく、話ができる友人もいないため、もはやわたしに残された希望は、この犬夜叉しかないである。
二時間が過ぎたころ、とうとう犬夜叉が終わってしまった。
(あぁ、またしても天涯孤独の身に逆戻りか・・・)
「ホーリィ!!」
「ダイダイダイダイ!!!」
仕方なくベッドに潜り込もうとした途端に、男子の激しい叫び声が聞こえてきた。振り返るとテレビ画面には、サッカー少年たちが映し出されている。そう、キャプテン翼だ。
わたしは目を輝かせながらテレビの前へ戻ると、あまり詳しくはないキャプテン翼に没頭した。
無論、イタリア語なので会話の内容は分からない。それでもボールを蹴ったりパスをしたり、とんでもないシュートを放ったりする絵を見ているだけでも、祖国・日本を思い出すことで懐かしさと温かさを感じるのであった。
(・・・ん?ホーリーって誰だ?)
わたしはふと思った。さっきから頻発する「ホーリー」という名前、これはいったい誰のことだろうか。少なくともキャプテン翼で、ホーリーとかベンジという名前の登場人物は記憶にない。
そもそも日本が舞台となるアニメなのだから、日本人がメインに決まっている。それなのにさっきから、ツバサやミサキ、コジロウ、ワカバヤシといった名前が一切聞こえてこないのだ。
その代わりに「ホーリー」「トム」「マーク」「ベンジ」といった、外国人の名前が飛び交っている。ということは、これはキャプテン翼であってキャプテン翼ではないのか――。
調べたところ、犬夜叉は「Inuyasya」のままだが、キャプテン翼は「Holly e Benji」というタイトルに変えられていた。
なんということだ、タイトルにまで使われている「ツバサ」という名前が、イタリアでは跡形もなく消え去っていたのだ。
しかし逆にいうと、これほどまでにもキャプテン翼は愛されているのだ。
それはつまり、日本が誇るアニメが世界中で愛されている証でもあるわけだ。
*
話が長くなったが、海外へ行くと必ず、日本のアニメ技術のレベルの高さを痛感するわたし。
要するに、われわれ日本人は恵まれているのだ。その証拠に、こうして毎日、溢れんばかりのアニメが見放題なのだから。
そして最近、よく見るジャンルといえば「異世界アニメ」と呼ばれる転生モノである。一般的な人気アニメをほぼすべて見尽くしたわたしは、いよいよマニアの域へと足を踏み入れたのだ。
コンビニから出てくると、そこは見知らぬ世界だった――。
そんなありえないストーリーから、異世界へ送り込まれた主人公は、そこで仲間を増やしたり魔法や体術を覚えたりして、魔王討伐を目指すのである。
まったく、感情移入もできないバカげたストーリーに、のめり込めるアニヲタの気持ちが分からない。
(・・・ここ、どこだ?)
赤坂の中華料理屋を出たわたしは、赤坂見附駅へ向かおうと道を歩き出した。そして、明らかに駅の方向へとつながる裏路地へ入った途端、そこには見たことのない異世界が広がっていた。
「こ、ここはどこ?」
思わず口にしてしまった。細くて長い道は、まるでジブリアニメのような長閑な雰囲気である。人も車も通っていない。ただ延々と、一方通行の道が続いているのであった。
直感的に「まずい」と悟ったわたしは、すぐさま引き返した。そして大通りへ出ると右へ曲がり、そのまま道なりにズンズンと進んだ。
するとほどなくして、赤坂駅にたどり着いてしまったのだ。
(・・どういうことだ?この方向で、しかもこの短時間で赤坂駅につくはずがない!)
――なるほど。わたしは一瞬、異世界へと迷い込んだのだ。あるはずのない裏路地に踏み込んだせいで、急いで戻った現実世界にゆがみが生じてしまったのだ。
その結果、数百メートルワープして赤坂駅へ着いてしまったのだ。
日本のアニメは恐ろしい影響力を持っている。
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