「資料の準備もばっちりです。服装も、一張羅で決めてきました!」
清潔感のあるネイビーのスーツに身を包んだ後輩が、威勢よく胸を叩きながら宣言した。彼らはこれから大手企業との商談に向かうところである。20代の後輩と40代前半の先輩とのコンビで、成功すれば何十億円もの利益が得られるプロジェクトを実現するべく、社運を賭けて敵陣へ乗り込むのだ。
「昨日、ぜんぜん寝れませんでしたよ」
「そうだろうな、今回の失敗は俺たち二人じゃ背負いきれないもんな」
なんというか、初々しい会話である。フリーランスのわたしからすれば、そのような高額な商談など縁遠い話であり、なにをどうすればその金額が得られるのかイメージすら湧かない。
来月の生活を心配するのが精一杯、それどころか、スマホを湯船に落としてからはバッテリーの減りが尋常じゃなく、それでも買い替えることができない不便な生活を送っているのが、わたしの現実である。
「とりあえず中華料理だから、円卓のフォローを頼むな」
先輩が後輩の肩を叩くと、後輩は力強く頷く。なるほど、まずは高級中華でランチを済ませてから、本題のプレゼンに入るというわけか。
そして後輩はそこでキビキビと立ち回ることで、少しでも「使えるヤツ」という印象を植え付けたいわけだ。ならば——。
「あの、ベルトのところにクリーニングのタグが付いてる」
わたしは見ず知らずの後輩に声を掛けた。その場にいた先輩もギョッとした表情でわたしを見る。仕方なく、後輩のケツの上でヒラヒラしているクリーニングのタグを指さした。
「あ、あぁ、ありがとうございます」
鼻毛が出ていますよとか、パンツ見えてますよとか、指摘されて恥ずかしい部類に近い内容のため、わたしはすぐさまその場を去った。
最高気温が30度を超えるこの頃、いや、気温が何度であってもランチの席ではスーツの上着を脱ぐに決まっている。そして、テキパキとお茶を入れたり皿を替えたりする後輩のケツに、クリーニングのタグがぶら下がっていたら非常に残念である。
それはそれで「人間味があっていいじゃないか!」となる可能性もあるが、ここまで準備万端で今日を迎えたならば、できる限りの完璧な状態を提供したいと思うのが、他人とはいえある種の親心といえる。
(これでキミたちの商談は、上手くいくだろう)
*
社運を賭けた商談に向かうコンビを後に、わたしは駅の改札へと向かった。するとそこへ、バンド活動をしているのだろうか。使い古したギターのソフトケースを背負い、ミニスカートから白い足をのぞかせた女子が階段を上ろうとしていた。そしてそのすぐ後ろへ、いやらしい目つきの脂ぎったじじいが割り込もうとしたので、すかさずわたしが足を出して阻止してやった。
というか、わたしだってミニスカートを履いているのだから、「おまえはわたしの立派な生足でも拝んでおけよ」と、内心呟いた。
ミニスカート女子、ミニスカートわたし、脂ぎったじじいという並びで階段をのぼりながら、わたしは彼女のギターケースのポケットが全開になっていることに気が付いた。
そもそもわたしの目の前にはギターケースしか見えないため、そこを見つめるしか目のやり場もなかったのだが、全開のポケットからはパンパンに膨らんだ財布が顔を出していた。
ふと上を見上げると、彼女は首からストラップを提げており、そこにスマホが装着されている模様。片手でスマホをいじりながら、タンタンと勢いよく階段を踏み込んでいる。
(電車に乗るのもコンビニで買い物をするのも、スマホで済ませてるんだろうな)
だからこそ、大切な財布がこんなことになっているのにも気がつかないのである。使用感のある折りたたみ式の黒い財布には、とてもじゃないが札束が入っているとは思えない。レシートか、あるいは学生証などのカード類が大量に入っているのだろう。もしかすると、小銭で膨らんでいるのかもしれない。
いずれにせよ、盗まれたところで人生が終わるほどの大事件にはならないだろうが、それでもわたしが番手を離れた時点で、後ろのじじいがこの事実に気付き、その汚い手を財布に伸ばさないとも限らない。むしろそれだけは阻止したいじゃないか——。
「あのさぁ、ギターケースのポケット全開で、財布落ちそうだよ」
一瞬、動きを止めた彼女は勢いよく振り返った。思わず突っ込みそうになったわたしは、なんとか踏ん張ってその場に留まった。だが後ろのじじいは、思いっきりわたしのリュックへ突っ込んできた。その結果、わたしが彼女の胸に顔を埋める形で止まったため、ドミノ倒しはギリギリのところで回避できた。
嬉しいような嬉しくないような、とにかく、彼女の財布が行方不明になるのを阻止できたことに安堵したわたしは、そのままさっさと改札を通過したのである。
(今日は、二度もいいことをしたぞ!)
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