ヌックマムの戦士、現る。

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――その瞬間、ベトナム人女性店員の目が鋭く光ったことを、わたしは見逃さなかった。

 

 

ベトナム料理の味などわからない、「なんちゃってベトナム料理ファン」しか訪れないと決め込んでいたであろうベトナム料理店の店員。いや、これはある意味正しいのだ。いわゆるチャイナタウンへ足を運ぶ外国人客は、単純にアジアかぶれが多いわけで、本物の郷土料理の味など分かるはずもない。

だからこそ、この店も中国料理とベトナム料理を一つの店舗で出しているのだ。メニューの紙だって、片面は中国料理で裏はベトナム料理が記載されている。こんなおかしな料理店は、日本ならばありえない。

 

例えるなら、イタリア料理とフランス料理を一つの店で提供するようなものだから、物理的には厨房が広ければ可能である。だが、席数30ほどのこじんまりとした店舗において、異なる国の料理を提供する専門店というのは、通常は考えられない。

それでもニューヨークのチャイナタウンにおいては、現にそのような経営方針で店が繁盛しているのだから、戦略としては間違っていないし顧客のニーズとも一致しているのだろう。

 

とはいえ、わたしは日本人でありアジア系民族である。つまり、アジア料理についてはアメリカ人よりも舌が肥えており、かつ、味にうるさい輩なのだ。

グルメな日本人代表として、チャイナタウンで評判のこの店のフォーを、厳しく審査してやろうじゃないか――。

 

こうしてわたしは、ベトナム料理と中国料理が混在する店、Nha Trang Oneのドアを押し開けたのである。

 

 

店内は小汚い雰囲気だが、不潔な印象を感じさせないあたりはさすが高評価の店である。わたしは店員に案内されたテーブルにつくと、さっそくメニューを眺めた。

中国語とベトナム語、そしてローマ字で表記されたメニューを目で追いながら、ふとこの店へフォーを食べにきたことを思い出すわたし。

 

(マンハッタンに来てわざわざチャイナタウンへやってきたのは、肉やシーフードに飽きたからだ。胃にやさしくさっぱりとした料理、そう、フォーでリセットするためにここを訪れたのだ)

 

手持ちの少ないわたしは、メニューの一番下にある「Pho Chay(vegetable&tofu with chicken base)」という、一番安いフォー($11.95)を選んだ。

豚肉の欠片やうす切りの牛肉は入っていないが、ブロッコリーや小松菜、スライスオニオン、豆腐、ネギなど基本的な具材でできた、シンプルで懐かしい味のフォーである。

 

注文してから間もなく、ベトナムのソウルフードである米粉のきしめん・フォーが到着した。見た目は予想通り、鮮やかな緑色とオフホワイトのスープで覆われた、優しい麺料理。

まずはスープをすすり、麺と葉っぱを口へと運ぶ。

(・・うん、美味い)

可もなく不可もなく、想像通りの体にやさしい温かさが、喉を通り過ぎて胃袋へと落ちていく。昨日までのゴテゴテした動物性たんぱくを拭い去るかのように、体から脳までが柔らかなベールでそっと包まれる感覚だ。

 

一通り素のフォーを堪能したところで、いよいよ本格的なラウンドへと突入する。そう、フォーは色々な味付けを施すことで、一杯のどんぶりで何種類もの味変が可能なのだ。

そのため、カットライムや生のモヤシ、香草、酸っぱいソース、辛いソースなど、様々な調味料がテーブルに備え付けられている。

 

なかでも忘れてはならない調味料は、ヌックマムである。

ヌックマム(nuoc mam)またはニョクマムは、日本語で魚醤(ぎょしょう)と呼ばれる、魚と塩を発酵させて作る液体調味料。タイ料理で使われるナンプラーとほぼ同類だが、ナンプラーのほうが発酵期間が長くて塩分が強いため味が濃く感じる。

 

元々薄味のスープであるフォーは、ヌックマムとの相性が抜群にいい。個人的には、最初に一口だけノーマルスープを啜ったら、あとはヌックマムをドボドボ注いで魚クサいスープに変えてしまうのが圧倒的に好みである。

そのくらい、フォーにとってもわたしにとっても、ヌックマムは切っても切れない縁なのだ。

 

それなのに、だ。このニューヨークのチャイナタウンで、トップを争う高評価のベトナム料理店のテーブルに、ヌックマムが置いてないではないか!!!

 

そんなはずはない。ヌックマムなくしてベトナム料理は成り立たないのだから。きっと、このテーブルだけ置き忘れたのだろう――。

わたしはキョロキョロと周囲のテーブルを見回した。ほぼ満員の店内では、誰もがフォーを注文しており、笑顔で話に花を咲かせている。

しかし、どこのテーブルにもヌックマムらしきボトルは置かれていない。見えるのは、わたしのテーブルと同じ調味料ばかりで。

 

(一体どういうことなんだ。ヌックマムがないベトナム料理店など、それこそなんちゃってだろう!?)

 

焦るわたしは、念のためもう一度テーブルに設置された調味料を確認する。確実性を増すためにも、一滴ずつ皿に垂らして味を確認した。

やはり、どう味わってもこれはヌックマムではない。百歩譲ってナンプラーの可能性すらゼロである。

 

絶望に打ちひしがれ、血の気の引いた顔を持ち上げたわたしは、一人の女性店員と目が合った。厨房で屯する従業員のほとんどは、明らかにアメリカ人の容貌だが、彼女だけは生粋のベトナム人だと分かる。

不安そうな表情でこちらへ向かってくる女性店員。そして声が届くところまで来たところで、振りぼるようにわたしはこう尋ねた。

 

「ヌ、ヌックマムをくれないか?」

 

すると彼女は、今までの沈んだ表情とは打って変わって、アクティブで戦闘的な顔つきに変わったのだ。

半分閉じていた目をカッと見開き眉間にしわを寄せながら、「オマエはヌックマムを知っているのか?!」と言わんばかりの表情で、ジッとわたしを見つめる。

「当たり前だ、ヌックマムなくしてフォーは成立しないじゃないか!」

心の中でそう叫ぶわたしの声を、彼女はしかと受け取った様子。小さく何度か頷くと、何も言わずに彼女は消えた。そしてすぐさま、辛いソースが入っていた容器にわずかに溜めてある、ヌックマムを持ってきたのだ。

 

(この容器は、そこにあるソースの空きビンじゃないか。ということは、手作りのヌックマムであるとみて間違いない。そしてこの店では、ヌックマムを常に提供しているわけではないのか――)

 

そう、この店は客を試していたのだ。ヌックマムを知っている、舌の肥えたベトナム料理巧者を待っていたのだ。

瓶のフタを開けると、魚醤ならではの魚臭さがプーンと漂う。間違いない、これこそが正真正銘のヌックマムだ!

 

顔を上げたわたしと再び目が合った女性店員は、真っすぐな瞳でわたしを見つめると、力強く頷いて厨房へと消えて行った。

そして、きっと彼女はこう思っただろう。

「待ちに待ったヌックマムの戦士が、ついに現れた!」

と。

 

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