年齢という呪縛に囚われがちな、日本人

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「もういい歳なんだから、やめたら?」

 

このセリフ、日本でよく耳にする常套句である。

不思議なもので、海外においては年齢を尋ねられたり、年齢によって判断が変わったりという経験は記憶にない。少なくとも、後者については一度もない。

もちろん、その国で何年も暮らせば、いずれそのような経験をするだろう。しかし感覚的に、「年齢」という物差しでヒトを測らない風土が、海外にはあるように思う。

 

とある友人が、冒頭のセリフを誰かに言われたことで、「今の自分はおかしいのだろうか?」と考えていた。

親からも見捨てられた私は、今さら「いい歳なんだから」などと言われることもないため、そんなセリフが聞けて羨ましく思うのだが。

 

そんな私が思うことといえば、「ほかの部分で足を引っ張れないから、年齢でマウント取ったんだろう」という程度の話である。

 

自分事として考えてみると、私が誰かをディスる、あるいは褒める際に、年齢を引き合いに出すことがあるとすれば、それは「本来、触れるべき本質に触れられない場合」だ。

たとえば、無知で非常識な高校生がいるとする。彼女の言動があまりに頓珍漢だったり、あまりに失礼だったりすれば、それを補う言葉として「若いから仕方ない」が挙がるだろう。

 

本来ならば「若さ」は関係ない話である。彼女自身が物事を知らなすぎることや、自己中心的すぎて他人に不快な思いをさせていることについて、ズバリ指摘をするべきシチュエーションだからだ。

とはいえ、我が子でもなければ縁故があるわけでもないわけで、そこまで込み入った注意をする必要もない。

ならばその場の和を保つためにも、やんわりとかわすしかない。そう、「無礼な態度は、若いから仕方ないよね」という言葉で。

 

年齢というのは、時間と同じく絶対的な指標である。自らの力でコントロールできない十字架でもある。だからこそ、年齢を理由にすれば何事でもかわせるし、逆に、何事でも強制できる。

「もう年だからさ・・・」

「まだ若いんだから、できるでしょ」

いずれも、逃げ場のない決めセリフといえる。

 

ところが、往々にして直接的な原因というのは「年齢」ではない場合が多い。

「年のせいで怪我が増えた」、「年が若いからなんでも挑戦できる」これらについて紐解いてみよう。

 

たしかに加齢とともに骨はスカスカになり、肉は落ち髪の毛は少なくなる。そのため、過去と同じ負荷でトレーニングを続けていたら、怪我につながる可能性は高い。

疲労の回復についても同じだ。昔はすぐに元気になったのに…と、感じる人もいるだろう。

しかし、怪我の直接的な原因は加齢ではない。たとえば無茶な負荷で筋線維が切れたとか、あらぬ方向に腕や足が曲がったとか、そういう原因によって怪我をする。これは若かろうが年寄りであろうが同じこと。

 

そして「なんでも挑戦できる」というのも、若いからできるわけではない。本人の性質による部分が大きいはずである。

若い頃は失うものはないというが、それは年を取ってからでもさほど変わらない。違いがあるとすれば、経験を重ねて賢くなった分「賢者は歴史に学ぶ」という選択肢が増え、失敗する確率の高いことにチャレンジをしなくなるだけのこと。

若者≒愚者は、失敗≒経験をしなければ納得できないため、挑戦しなければ先へは進めない。とはいえ、若者イコール愚者ではない。言葉の綾としてそう使われているだけで。

 

まぁ理屈っぽい解釈だが、年齢が直接的な原因となることは実際には少ない。それでも自らの保身のため、あるいは相手を徹底的に打ちのめすために、年齢という絶対的なパワーワードを持ち出すわけだ。

では、逆に尋ねたい。「あなたから年齢を取り除いたら、なにが残りますか?」と。

 

若くても年寄りでも、できる人は何でもできる。年齢由来の変化はあれど、それぞれのフェーズに合ったレベルで挑戦すれば、できないことなど何もない。

「もういい歳なんだから」

という言葉を使いたがる人は、年齢以外に誇れるものがないのだろう。

 

年を重ねてもなお挑戦する姿にイライラした”誰か”は、年齢という「葵のご紋の印籠」を突き付けることで、有無を言わせず跪かせたかったのかもしれない。

それもまた、滑稽で面白いことではあるが。

 

サムネイル by 希鳳

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