わたしは今、スズメを踏んだ。
信じられないことだが、わたしの右足裏にはスズメを踏んづけた感触が残っているのだから、まぎれもない事実である。ちなみに、わたしに踏まれたスズメはすぐさま逃げ出したので、大きな怪我は負っていないはず。
そしてわたしの靴底には、粉々になったクッキーを踏みしめる音がするわけで、要するにあのスズメはクッキーを食べるのに夢中で、わたしという脅威に気づかなかった——というわけか。
スズメは、野鳥の中でも警戒心が強いことで有名。おまけにニンゲンの生活圏内で生きているため、ヒトが5メートルも近づけばすぐに逃げ出す怯えっぷり。——言われてみれば、スズメという鳥を至近距離で見た記憶はないな。
それに比べて、図々しさが抜きんでているカラスなど、触れるほど近くに寄っても慌てることなくチョンチョンと遠ざかる程度で、その態度がまた腹立たしくもあるのだが。
そんな"警戒心の塊"であるスズメが、いくら食べ物に飢えているからといって、堂々と歩くニンゲンの存在に気づかないはずがない。現に、もう一羽のスズメはしっかりと自転車の影に隠れたわけで、「おい!ヤベェのが来たぞ!」と必死にアピールしている様子が見て取れた。
にもかかわらず、ちょっと小太りなスズメは、クッキーの粉を啄(ついば)み続けたのだ。
*
ビルの角を曲がった途端、わたしは少し先の路上に二羽のスズメを発見した。黄色っぽい細かな何かを必死に啄んでおり、「メゾンカイザーがすぐそばにあるし、高級なパンくずかな?」などと、どうでもいい予想をしながらスズメたちに近づいていった。
——念のため、スズメを脅す目的など皆無であることは明確にしておきたい。わたしだって、いたずらに彼らの食事を邪魔するほど野暮ではないし、動物を驚かせたりいじめたりすることは、そもそも好きではないわけで。
だが、自宅の方向がそちらである以上、スズメたちには申し訳ないがそこを通過しなければ帰れないのである。しかも、道幅が狭い上にど真ん中で食事をしていることから、否が応でも彼らにどいてもらう必要がある。だからこそ、なるべく早めにそこを離れてくれるとありがたいのだが——。
そんなことを思いながら、一歩また一歩とわたしは彼らに近づいて行った。すると、比較的早い段階で一羽のスズメがその場から飛び去り、道端に止めてある自転車の後ろへと身を潜めた。
(すまないね、でもそれが最も安全かつ効率的な行動だよ)
たかがスズメではあるが、食事を邪魔されるのはわたしならば許せない行為なので、一抹の謝罪を胸にまた一歩"現場"へと近づいていった。ところが、あと数歩でたどり着く・・という距離にもかかわらず、もう一羽のスズメは未だにガツガツと餌を啄んでいるではないか。
(・・おいおい、オマエは食いしん坊か?)
とはいえ、警戒心の強さに定評のあるスズメが、まさかカラスのようにヒトを嘲笑うとは思えない。さすがにあと一歩、いや二歩以内に逃げるだろう——。
そんな軽い気持ちで歩を進めたわたしは、まさかの事態に驚きを隠せなかった。「さすがに、スズメが逃げないはずはない」「だからこそ、歩く速度を緩める必要はない」・・そんな安易な思い込みが、無情にもわたしの闊歩(かっぽ)を促してしまったのだ。
そしていよいよ、あと一歩でスズメを踏んでしまう——という瞬間、さすがの食いしん坊も身をひるがえしてその場を去る・・・はずだった。そうなるはずだったのに、わたしは柔らかくて丸っこい"ナニか"を踏んだのだ。
それは確実に生きた物体で、しかしながら四つ足の小動物とは異なる"鈍さ"をはらんでいた。そう、なぜならばそれは鳥だったから——。
「あっ!」と思った瞬間には時すでに遅し・・とはいえ、痩せても枯れても野生の鳥。鈍いながらも、命からがら相方のいる方へと転がり逃げたため、わたしがスズメを踏み潰す——つまり、殺傷事件は回避できた。
だが、若干なりとも小さなスズメを踏んづけた感触は、ビルケンシュトックの靴底を通じてわたしの体内を駆け巡った。あぁ、まるであの時のような——。
そう、かつてビルケンシュトックのサンダルでゴキブリを踏みつぶし、そのままマンションのごみ捨て場へサンダルを蹴り捨てた過去を思い出したのだ。
(ビルケンシュトックは、生き物を踏みつぶす機能を搭載しているのかもしれないな・・)
*
というわけで、人生初の「スズメを踏む」という衝撃的な体験をしたのである。
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