ほんのちょっとの違いで、こうも印象が変わるものなのか——。
たとえば、お気に入りの服を店で見つけて「ここに付いてるボタンさえなければなぁ」と思ったとしよう。たったそれだけのことで、服の魅力がゼロになることがあるだろうか。ボタン一つで興味がなくなるほどの魅力ならば、そんなものは最初からその程度なのだ。
そしてわたしは、性別はオンナだがマインドは立派な漢(オトコ)である。清々しいほどキッパリサッパリ、竹を割ったような決断力こそがわたしの魅力。そんなわたしが、全身全霊で愛を誓う食べものといえば・・そう、抹茶である。
抹茶関連の菓子や食べ物ならば、どんな状態でも基本的にはウェルカムだし、"宿敵・あんこ/あずき"との相性が世間的に認められていることも承知している。
もちろん、個人的には愛する抹茶とあいつらが良い仲であることなど、これっぽっちも認めたくはない。だがなぜか、やたらと二人のコンビネーションを目にする機会が多いため、本音は大反対だが「周囲の目もあるし、成り行きで交際を許可するしかない親の気持ち」がよく分かるのだ。
(クソッ・・いつかもっとお似合いの相手を探し出してやる)
とまぁ寛容な心の持ち主であるわたしは、抹茶とあんこ(あずき)がベタベタとくっ付いていることを認めざるを得ないわけで、そのくらい抹茶を愛しているのである。
*
「これ、すごく美味しかったよ!」
友人から一枚の画像が送られてきた。そこには、ガラスの器に山盛りにされた抹茶のかき氷が写っていた。かき氷といえば器に円錐形で盛りつけられているのが、イメージとしては一般的だろう。つまり、先端が尖った状態で盛り付けられており、山頂部分からシロップがしたたり落ちているわけだ。
ところが友人が食べたとされるかき氷は、器の幅そのままに堆(うずたか)く氷が積み上げられており、先っちょが尖がっていないのだ。さらに、平らに固められた上底には、モチモチの白玉が三つ平和に鎮座していた。
抹茶も白玉も大好物のわたしは、この二つの好条件ならば手放しで喜ぶところ。しかしながら、どうしても解せない状況がそこに映し出されていたのだ。
(・・なぜ、白玉の下に大量の粒あんが載せられているのだ。しかも白銀に輝く練乳を惜しみなくまとった状態で)
思うにこれは"白玉の座布団"という立ち位置なのだろう。座布団として座りのいい粒あんが選ばれ、さらにフォルムをフレキシブルに保つべく、練乳をぶっかけることで粒あんに湿り気を与えた・・というわけだ。
なるほど、そのアイディアは素晴らしい。たしかに、白玉の玉座として粒あんと練乳を選んだことは間違いではない。なぜなら、かき氷の上にダイレクトに載せてしまったのでは、氷ごときに白玉の重みを支え切れるか不安だからだ。
とはいえ、こんなにもずっしりべったりと粒あんを載せてしまったのでは、抹茶かき氷が台無しになるではないか。その証拠に、凡人にとっては見事なかき氷の画像かもしれないが、わたしにとってはなんの魅力も感じないわけで——。
(せめて練乳がかかっていなければ、すばやく粒あんをどかして白玉と抹茶かき氷をドッキングさせるのに、こんなにもみずみずしい状態の粒あんでは、きれいに剥ぎ取ることは不可能に近い・・あぁ、なんという拷問に近い嫌がらせなんだ)
今までも幾度となく抹茶と粒あんのミスマッチを目にしてきた。それでも、なんとか切り離すことで抹茶の貞節を守ってきたのである。抹茶アイスにちょこんと乗っかる粒あんも、抹茶パンケーキに添えられた粒あんも、抹茶かき氷に寄りかかる粒あんも、すべてパパっと取り除くことで抹茶が誇る美しき純潔を、この手で守り抜いてきたのだ!
それなのに、この画像に写る立派なかき氷から"粒あんの呪い"を解くことは難しい。どうせならアイスクリームスクープか何かで、丸い粒あんの塊を乗っける程度に留めておいてくれればいいものを、ここまでべったりと押しつけたのでは救いようがない。
(これはまるで、抹茶がストーカー被害に遭っているみたいだ・・)
*
救いの手を差し伸べることのできない無力なわたしは、惨めで哀れな抹茶かき氷の画像を、悲しいまなざしでただ見つめるのであった。
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