私は警戒心が強い。街中を歩いても常に周囲に気を配り、特に背後への警戒を怠らない。ふと何らかの気配を感じると、目力マックスの鬼の形相で振り向き、そのタイミングで目が合った人間が足を止めることもしばしば。
さらに電車で隣りに座った人間のスマホもチェックする。もちろん、あからさまではなくチラ見程度にさり気なくだが、大きく見開いた目で画面の情報をすべてインプットする。
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今朝、地下鉄で隣りに座った中年男性は不倫をしていた。年齢は50代前半だろうか。細身でO脚、スーツはくたびれていたが、不潔な印象は感じられないごく普通のオッサン。髪の毛はやや薄いも、ワックスで整えているあたり、オシャレに無頓着というわけではなさそうだ。
そんなオッサンのスマホを視界の端で捉えると、LINEを開いている。さらに中年女性のアップ画像が送られてきている。
(奥さんにしては時間が早すぎる)
勝手な想像だが、家を出た直後にわざわざ自撮り写真を送ってくるほど、初々しい夫婦関係の妻がいるとは思えない。
するとオッサン、少し前のやり取りを見るためか、LINE画面をスクロールさせた。さきほどの自撮り画像の直前は、相手からの「おはよう」、その前は相手からの「おやすみ」と自分からの「おやすみ」だった。
(あぁ、不倫か)
つまり、朝起きて不倫相手が自撮り画像とともに「おはよう」を送ってきたのだ。そしてその返信をすべく、電車に乗ったいまLINEを開いたのだ。
念のため、その後のやり取りも確認させてもらったが、まぁ不倫ということで間違いないだろう。ただ一つ、胸が痛んだのはLINEの文字がデカかったことだ。きっと老眼なのだろう。それでもなお奮闘する姿に心打たれた私は、密かにエールを送ってやった。
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カフェやレストランで仕事の話をする場合、とくに個人情報の流出に気を付けなければならない。東京広しといえど、いつどこで知り合いと出くわすか分からない。さらには探偵やCIAに尾行されている可能性もないとは言えない。そのため、私は会話に出てくる人物をニックネームで呼ぶことにしている。
「このスタッフ、元カレに似てるんですよね」→「元カレ似」
「彼女、ヒョウ柄の服とか着るんですよ」→「大阪のおばちゃん」
「身体の割に、脚がめちゃくちゃ細いんですよ」→「ルパン」
このように、私と相手にしか分からない呼び名で会話を進めることが多い。新たな人物が登場すると特徴などを聞き出し、強引にニックネームを付けてその後は本名を出させない徹底ぶり。
さらにクライアントが有名人の場合など、なおさら神経を尖らせなければならない。運悪く渦中の人物だったりすると、それを聞いた赤の他人が面白半分で情報流出させる可能性もあるため、必要以上の配慮を心掛けなければならないのだ。
そんな私の向こう正面に、こちらを気にする一人の男性がいる。私の目の前にはクライアントが座っているのだが、彼の背後からこちらをチラ見している若者がいるのだ。
(しまった、関係者か?)
その男性はスーツをきちんと着こなし、誰かを待っている様子。そこで私はクライアントの肩越しに、スーツ男の動向に注意を払うことにした。すると男は、顔色一つ変えずにパソコンを開くとタイピングを始めた。
(誰かに密告している様子でもないな)
こちらも仕事の話をしているため、スーツ男にばかり気を取られるわけにもいかない。かつ、クライアントにそれを気づかれるのも避けたい。そのため、声のボリュームを下げながら、隠語を駆使して会話を続けることにした。
時が経ちカフェを出る時間がやって来た。会計を済ませると、出口のドアを開けて雑踏へと紛れ込む。――と、その時。
「あの、すみません!」
いま出たばかりのドアから、あのスーツ男が飛び出してきた。
「突然で申し訳ありません。あの、もしかして格闘技とかされていますか?」
――デタ!!たまにあるこの質問。今回もやはり、頭のてっぺんからつま先まで舐めるように見回しながらの発言だ。どうせフォルムが格闘家っぽいとか、そういうことだろう。ならば適当に夢でも見させてあげればいい。
「そうですよ。なんで?」
「やっぱり!〇〇さんですよね?!」
この返しには驚いた。過去に何度か、試合会場で本人と間違えて声を掛けられたことがあるが、こんな都心で指名されるとは思ってもみなかった。というか、格闘技ってわりとメジャーなのか?
とりあえず否定しつつも、私の所属ジムであるトライフォース赤坂・溜池山王への勧誘を忘れなかった。
もしこれで本当に入会してくれたら、私の営業力も捨てたもんじゃないということだ。彼と再び会える日を、楽しみに待とう。
サムネイル by 希鳳
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