(絶対にこっちへ来るなよ・・)
人で溢れかえる新宿駅の山手線ホームへ降り立ったわたしは、とにかく必死で祈った。
決壊したダムのように満員電車から乗客が押し出され、一目散に階段へと向かう力には、さすがのわたしも抗えない。踏ん張ろうにも不可抗力ゆえに、うまいこと流れに乗って階段を降りるしかないのだ。
そんな中で、わたしは一人のオトコに目を付けた。いや、奴が勝手にわたしの視界へと飛び込んできたのだ。
これぞまさに"年齢不詳"というに相応しい、20代前半にも50代にも見える小柄な男は、何度見ても覚えられそうにない薄い顔と、同じような服装の人間が千人はいそうなありきたりなファッションで身を固めていた。さらに、これまたどこにでもありそうなメガネをかけており、雰囲気に飲み込まれたら消えてしまいそうな、存在感のない人物である。
年齢は不詳だが、髪の毛が薄かったり白髪が混じっていたりすれば、それなりのトシであることが推測できる。よって、オトコの斜め後ろに位置するわたしは、その平凡なつむじ辺りを睨みつけた。
(・・薄くはないし、白髪もない。ということは、若いのか?)
人混みに流され、自分の意思とは無関係に改札方向へと進まされるわたしは、年齢不詳で凡庸なオトコの真隣りへと押し出された。その顔をあまり見たくはなかったが、せっかくだからと肌の質感を目視で確認したところ、想像以上に厚い皮膚をしており、シワもなければ脂ぎっているわけでもなかった。だがアゴ辺りのわずかなたるみが、若者ではないことを物語っているため、こいつは中年であることが確定した。
そして、なぜこのオトコに目を付けたのかというと、こいつの行動に原因があったからだ。できればそんな光景を見たくなかったが、たまたま視界に入ってしまったのだから不運としか言いようがない。
ではコイツ、いったい何をしていたのかというと、人間でごった返す新宿駅構内で、なんとなんと鼻をほじっていたのだ!!それも何度も何度も、ずっと鼻をほじっているではないか!!
「鼻がむずがゆくて一度だけ指を突っ込んでみた」・・とかであれば、百歩譲って理解を示そう。とはいえ「人混みの中でわざわざやることなのか?!」という疑問は拭えないが、それでも何度も繰り返し躊躇なく指を鼻へと突っ込むよりはマシである。
そして、その様子に釘付けになったわたしは
「・・ったくキタネェ奴だ。だがこれだけ人間がいれば、あぁいうデリカシーのない不潔なオトコもいるだろう」
と、忌々しい気持ちを抱きながらも、他人事として片付けようとしていた。
だがそいつは鼻の穴に突っ込んだ人さし指を抜くと、その指先をしばらく見つめてから再び鼻へと戻した。そしてまた、鼻の下を伸ばしたり口を左右へひん曲げたりしながら、鼻をほじり出したのだ。
(・・し、信じられん!公衆の面前で何やってんだよテメェは!薄汚い恥さらしがっ!)
怒りとおぞましさで身震いがする。とにかくこの不潔オトコから離れよう。誤ってあの人さし指がわたしに触れでもしたら、それこそ事件である。己の冷静さを保てる自信がないわけで、警察の世話になるくらいなら今すぐこの場から立ち去るべきだ——。
そこでわたしは人混みをかき分け、なるべくオトコから離れた場所へ移動しようと試みた。・・ところがそれは叶わぬ夢だった。
世界一の乗降者数を誇る、大都会のハブステーション・新宿駅のホームで、そのような身勝手が許されるはずもない。わたしの意志とは無関係に、後ろから横から出口へ急ぐ人間どもに押されて、望んでいないのに鼻ほじりオトコに密着させられたのだ。
(ウギャァァー!!!手を、絶対に手をこっちへ向けるなよ!!!)
全身全霊ではち切れんばかりの殺気を放ちながら、わたしは必死に抵抗した。だがそんな努力も虚しく、望もうが望むまいが道は勝手に作られて、勝手に歩かされるのである。まるで親に敷かれたレールを辿る思考停止の子どものように——。
ここで気を付けなければならないのは、このオトコに敵対心を抱かせないことだ。もしもわたしが鼻をほじる姿を目撃し、その指先の行方を警戒していると知られれば、真っ先にわたしへと指先が向くだろう。そうなったらもう、わたしは自我を抑えられずに発狂してしまう。
よって、オトコのほうを見ることはせず、それとなく方向を変えるべく全力で反対側へ顔を向け続けた。それでも人の流れは自動的に改札へと向かうわけで、その大きな流れに逆らうことは困難。
(あっ!また鼻をほじった!)
不審な動きというのは目視せずとも把握できるもの。こいつはさっきから何度も何度も鼻をほじっては指先を眺め、再び鼻の穴へと指を戻しているのだ。
(マズいマズい、この次に起こるべき動作は、指先の異物を他人に拭いつけることだ。このままではわたしが第一候補に挙がってしまう・・・)
・・やむを得ない。わたしは改札ではなく、京王線の乗り換え口へと舵を切った。とりあえずこの波を乗り越えたら、踵を返して改札へ向かえばいい——。
「急がば回れ」というわけで、とりあえず緊急回避できたことにホッと一息ついた瞬間、背後から悍ましいオーラを感じた。・・そう、アイツがわたしの真後ろにピタリと張りついていたのだ。
こ、これはマズい。さすがに背中をとられてはなすすべがない。かといって目の前にも人間が詰まっており、先を急ぐこともできない。そして左は壁で右は手すりというわけで、逃げ道など存在しないのだ。あぁ、万事休す——。
*
過去を悔やむうちは明るい未来など手に入らない。だからこそ、前だけを見て歩いていけばいい。そう、決して振り返るな。胸を張って前だけを向いて行くのだ——。
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