犬の気持ちなんて、人間には分かりっこない。我々が思うこと、感じることなどエゴでしかなく、それが事実かどうかを確かめるすべもないわけで。
それでも乙は、診察台の上からわたしに助けを求めた。明らかに「助けて」という表情を浮かべながら、前足でわたしの腹を引っ掻いた。
「断指となるかもしれません」
獣医師のこの発言の直後に、乙は悲しい顔でわたしを見上げたのだ。
人の名前や「ごはん」「さんぽ」といった、特定の単語に対しては反応するものの、人間の会話を犬が理解できるとは思えない。ましてや専門用語混じりの話であり、人間同士でも意味がわからない部分があるほど。
だけど乙は、間違いなく何かを察知したのだ。言葉などわからなくても、近い将来自分に起こるであろう悲劇について、たしかに理解したのである。
*
二か月前、乙の左前足小指の付け根に、小さなイボのようなものが現れた。最初は「単なるイボだろう」ということで経過観察をしていたが、一か月経ってもイボは消えなかった。
それどころか日に日に大きくなっていく様子に、違和感を覚えた。
乙の世話をしてくれている母が、毎日イボの画像を送ってくる。だが一か月が過ぎたころから、イボの大きさが小指を超えたのだ。
「出血もあるから、針を刺して検査してもらった。そしたら、細胞の形はハッキリしているし、崩れてもいないので大丈夫だって」
そんなメッセージが届いたのは、今から一か月前のこと。
どうやら放置しておいても、数か月で自然退縮する類のものらしく、これといった特効薬があるわけではないとのこと。
その時点で正式な診断名を聞かなかったわたしも悪いが、およそ「皮膚組織球種の疑い」といったところだろうと、高をくくっていた。
それからさらに一か月が過ぎ、乙のイボはますます膨らんできた。乙が舐めるからだろうか、イボの表面からは出血が見られるため、実家の床には新聞紙が敷き詰められていた。
ちょうどその頃、不運にも乙は下痢が続いていた。治療のために、ステロイドや抗生剤を服用していたことから、「もしも皮膚組織球種ならば、薬の影響で小さくなるのではないか」という期待を、獣医師もわたしたちも抱いていた。
だがそんな願いも虚しく、イボの成長は止まらなかった。
わたしは乙のいる長野へ行くと、一緒に動物病院を受診した。主治医は、笑顔の可愛い女医だった。
「ここまで大きくなってしまうと、腫瘤を切除するほうがいいかもしれませんね」
ステロイドも効果をみせず、みるみる膨らんだ小指の外側は、もはや「イボ」とは呼べないほどに、明らかに病気の様相を呈している。
主治医は続けて、日常生活ではあまり聞き慣れない言葉を告げた。
「腫瘤がツルンと切り取れない場合は、断指となるかもしれません」
・・・ダンシ?
人間の場合で考えてみる。小指の外側に、良性と思われる大きな腫瘤があるとする。それを切除するのに、小指まで切り取るなどという選択肢があり得るのだろうか?
犬の場合、小指がなくても生活に支障がないことや、細胞診検査の結果で「悪性」だった場合に、どのみち指ごと切断しなければならないことは理解した。
だが、健康な指を切断しなければならないほど、腫瘤を取る手術は難しいのだろうか。
気持ちの整理がつかないわたしは、難病を乗り越えた猫の飼い主である友人に相談した。するとその数分後に、インスタでこのような投稿が上がった。
「友達がワンちゃんの病院を探しています。同じような症状で手術された方、病院教えてください!」
それは友人の猫専用アカウントだった。フォロワーは千人を超えており、ほぼすべてが猫の飼い主たちの様子。
彼女は自身の「猫ネットワーク」を使い、乙の腫瘤の画像とともに情報提供の依頼を発信してくれたのだ。
投稿から数分後には、すでに何名からのフォロワーからリアクションがあった。
「骨肉腫で断脚手術を受けた猫ちゃんがいます」
「動物病院を探しているそうですが、長野県ならば●●動物病院がおすすめです」
「同じ症状だった先代の猫は、何度検査しても『異常なし』でした。しかし絶対におかしいと訴え、手術をしてもらった結果、良性の細胞と急成長する悪性の細胞とが混在していました」
他にも、飼い犬のかかりつけ病院のリンクを送ってくれたり、知り合いの獣医師から助言をもらってくれたりと、見ず知らずの人を含む大勢の愛犬家・愛猫家によって、さまざまな情報が集まって来た。
あげくの果てには、友人の愛猫の命を救った名医からもメッセージが届いたのだ。そこでわたしは、お言葉に甘えて、断指のことや手術の方向性についてなど、調べようのない個人的な疑問を投げさせてもらった。
先生はそれらすべてに対して、丁寧に返信してくれた。
時間は深夜1時半を回っている。こんな夜中に、赤の他人のために無料で専門家がアドバイスをくれることなど、通常では考えられない。
しかも友人の愛猫を救った、お墨付きの獣医だ。
なんというか、心の底から感謝の気持ちでいっぱいである。
*
そしていま、わたしは乙の今後について覚悟を決めた。
腫瘤を切除するのに、断指しなければならないシチュエーションと可能性について、自分自身で理解し納得できたからだ。
「決めていただくのは飼い主さんですし、その考えを尊重します」
乙の主治医は、最後にこう言った。つまり、飼い主側も考えなければならないのだ。
そして考えるためには、最低限の知識に加えて、術後の回復見込みや再手術のリスクなど、乙にとって負担の少ない選択肢を、飼い主が責任を持って考えなければならないのだ。
乙が不安そうな目でわたしを見上げたとき、あれはきっと、断指が怖かったのではない。
なにも分からずただ話を聞いているだけのわたしを、不安に思ったのだろう。
でももう大丈夫。乙の未来はわたしが守る。
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