今思えば、あのアメリカ人は偉かったと思う。自分の価値観と判断力で画面をタップしたのだから。
「これはルールですから」
の一点張りで押し通されたら、わたしはまだ日本には戻れていなかったわけで。
*
9月7日0時以前に日本へ入国する場合、帰国便の搭乗72時間前までに、新型コロナ陰性証明を取得しておかなければならなかった。
ところが本日以降は、ワクチン接種を3回以上行っている場合に限り、陰性証明は不要となった。
だがもれなく陰性証明が必要なわたしは、ラスベガス市内のクリニックにて「鼻腔ぬぐい液の核酸増幅検査」を受け、結果は「Negative(陰性)」。予定通り帰国できることとなった。
そして事件は空港で起きた。
帰国時の検疫手続事前登録を済ませたわたしは、意気揚々とチェックインを行っていた。ポンポンと画面を進めると、
「お近くの航空会社スタッフをお呼びください」
というメッセージが現れた。日本出国時もそうだったが、ここでワクチン接種証明や陰性証明の確認をしてもらい、スタッフが「OK」をタップすると次へと進めるのだ。
出国時など、スタッフは忙しすぎて何もチェックをしなかった。
わたしがワクチン接種を2回済ませているかどうかなど、誰も確認していない。それでも飛行機に乗れるし米国へ入国できるのだから、なんというか非常に形式的なものなのだと感じた。
しかし帰国時は、スタッフが暇だったせいか「書類に目を通させろと」と凄まれた。
まぁべつに悪いことをしているわけでも、書類を捏造したわけでもないので、クリニックで発行された英語版の証明書を彼女へ手渡すと、しばし時が過ぎるのを待った。
「んー、困ったわね」
苦笑いしながらお姉ちゃんが顔を上げる。なにが困ったんだ?なにも困ることはないだろう。
「検査は72時間以内でないとダメなのよ」
そんなことは分かっている。だからこそ昨日、検査に行ったのだから。
すると書類の「ある部分」を指さしながらこう言った。
「昨日じゃないわ。8月30日に検査したことになってるのよ」
一瞬、嫌な予感が走る。
(まさかあのクリニック、日付を間違えたのか?いや、そんなはずはない。わたしもその場で確認したのだから)
彼女から書類を奪い取ると、すぐさま日付欄を確認。するとなんと、報告日は9月3日午後12時4分だが、採取日と検査日が8月30日午後12時52分になっていたのだ!
(クソッ!書類のひな型をコピペしてるから、前の日本人の記録が残ってたんだ・・)
そこでわたしはお姉ちゃんにこう言った。
「わたしがアメリカへ来たのは8月31日だよ。つまりこれは、クリニックの記入ミスだね」
すると彼女はこう答えた。
「それは知らないわ。でもここには8月30日と書かれてるから」
ここでわたしにクレーマーの、いや、交渉人としてのスイッチが入った。
「この書類は置いといて、8月31日に入国したわたしが、どうすれば8月30日にラスベガスのクリニックで検査を受けられると思う?」
「・・無理でしょ」
「そうね、普通に考えれば無理だよね。ではこの書類の話だけど、検体採取日が入国日より前の日付が記入してあるけど、これはどういう理由が考えられる?」
「・・・知らないわ。書き間違えでしょ」
「そうだよね。ちなみにこれが31日に入国したスタンプと、空港からホテルまでのUBER。そしてこれが3日にホテルからクリニックへ行ったUBERの履歴ね」
そう言いながら、パスポートとUBERアプリを見せた。
当たり前だが、忌々しい顔でチラ見する彼女。そりゃそうだろう、誰がどう見たってクリニックの誤記であることは明白。
それでも航空会社スタッフとしては、書類こそがすべてであり、そこに書かれた内容で判断するのが正義なのだから。
すると彼女が口を開いた。
「それでも、72時間以内の結果じゃなければダメ」
そこでわたしは再び、こう尋ねた。
「これは、今から30時間前に検査をした結果よ。さっきも言った通り、採取日が誤りで報告日と検査結果が正しい。日付の記入ミスだとしたら、真実はどれかしら?」
彼女は黙った。
「あなたの賢さを信じてる。画面のボタンをタップして」
追い打ちをかける。
「タップして」
すると彼女は、ふてくされた表情を浮かべながらも「OK」ボタンをタップして、去って行った。
*
現場の判断で、という運用がどこまで許されるのかは分からない。だが少なくとも、彼女は彼女の頭で考えて判断した結果、OKを選んだのだ。
「ルールですから」
の一点張りならば、その先どうなっていたのか分からない。
とはいえ、記入済みの政府指定フォーマットも持っているので、いざとなれば正しく記入されたこちらを見せればよかった話。
旅の最後にちょっとだけ、思い出を作りたかったのである。
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