舟を漕ぐ乙

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わたしは今日、犬と人間との圧倒的な能力差というか、機能あるいは性能の差を身をもって知った。

フレンチブルドッグの乙(メス・12歳)は、鼻腔内腫瘍により鼻呼吸がほぼできない。そのため、起きているときは口から息を吸い込むことで呼吸を保っているが、睡眠時には無呼吸となるため眠ることができないのだ。

人間のように"鼻が詰まったら口に切り替える"という便利な機能があったなら、乙はどんなにラクだろうか。だが犬や猫・・というか人間以外の哺乳類のほとんどは、残念ながら口では呼吸ができないのである。

 

「そんなの嘘だ! なぜなら、炎天下や散歩の後に犬がハッハッと口で呼吸をしている姿を見たことがある」

という人もいるだろう。じつはこれ、酸素を取り込んでいるというよりも、体温を下げるための行為=パンディングと呼ばれる生体反応なのだ。

 

犬は汗をほとんどかかないため、パンティングにより唾液を蒸発させて、その気化熱で体温を下げている。つまり、体温調節以外の要因で口呼吸をする犬は、およそ鼻に問題があることの現れであり、健全な状態とはいえない。

とはいえ、フレンチブルドッグなど"短頭種"と呼ばれる犬種は、そもそも鼻腔が細くて短い。そのため、鼻からの吸気だけでは酸素が足りずに、口からも取り込もうとする場合がある。乙もまさにこれであり、ただでさえ細い鼻腔が大量の腫瘍によって塞がれており、口から酸素を吸い込めなければその先に未来はないのだ。

 

そんな哀れな乙を膝の上に載せながら、打つ手のない残酷な現実を噛みしめていたところ、乙の後頭部がみるみる床に向かって垂れていった。そして、耳を澄ますと微かに呼吸音が聞こえるではないか。さらに、乙の腹部に触れているわたしの手にも、はっきりと膨張と収縮を繰り返す様子が確認できる。こ、これはどういうことだ——。

この一か月間、一分たりとも眠ることのできなかった乙が、今、わたしの膝の上で辛うじて眠っているのだ。その証拠に、ジャーキング(体がピクッと動く現象)を繰り返しているわけで、こんな奇跡があるだろうか・・・。

 

しばらく観察していると、なんともうまい具合に口呼吸を繰り返している。さらに、僅かではあるが鼻からも吸い込んでいる様子。一分、二分・・気がつけば四分が経過していた。

(このまま何時間か眠り続けてくれれば・・・)

そう祈った途端、皮肉にも乙は目を覚ました。それでもまたすぐに、わたしの腕に首を預けるとグーグーと寝始めたのだ。

 

そういえば昨晩、長野へ向かう途中の車内で乙を抱きかかえていたところ、短時間だが眠っていたことを思い出す。あの時も同じように、乙の頭は垂れ下がっていたな——。

果たしてこの状態が、乙にとって"眠りながらも口呼吸が継続できる体勢"なのかどうかは分からない。だが目の前で、紛れもなくいびきをかいて目をつむっている乙がいるわけで、これ以上の事実も現実もありえない。

 

その後、おしっこをするべくトイレへ向かった乙は、そこでも睡魔に抗うことができずに倒れ込んでしまった。しかし奇跡的にも、トイレシートを挟んでいるトレーのフレームに顎を載せて、先ほどと同様にグーグーと眠っているではないか。

(いくつかの偶然が重なったとはいえ、こんな奇跡が起こるとは・・)

鼻呼吸のできない乙が眠りにつくことは、ほぼ不可能。よって、日に日に衰弱していく姿を見守ることしかできない・・と覚悟をしていた矢先に、まさかのいびきを聞くことになるとは、予想だにしない嬉しいノイズである。

 

ところが・・というか案の定、奇跡的な幸せは長続きしなかった。ふたたび舟を漕ぎだした乙は、真っ赤に充血した目を開いて眠れない現実に戻ってしまったのだ。

そのときわたしは思った。乙はバカなんだ——と。

 

もしも人間ならば、「この角度なら眠れる」とか「こういう呼吸なら無理なく続けられる」ということを、一度の成功からでも学ぶだろう。さらに、様々な方法を探したり試したりしながら、最善な選択をすることもできる。

だが乙は・・いや犬は、そういった感覚を持ち合わせていない。ただ単に"偶然、その角度になっただけ"であり、"偶然、そのまま口呼吸を継続することができただけ"なので、乙がその状況を記憶して再現することなどできるはずもないのだ。

 

(なんで、さっきみたいに呼吸をしながら眠ってくれないんだ・・・)

そう思うのは、わたしが人間だからである。そして、人間ならば当たり前のことでも、動物にとっては決して当たり前ではない・・ということを、嫌でも理解しなければならない。

そもそも、お互いの能力や認識についての乖離を理解できる者はどこにもいない。人間は人間の勝手な思い込みで「理解したつもり」になるが、動物にとってそれが正解だとは思えないし、その確認をすることもできないわけで。

 

・・・だからこそ、偶然が重なるという奇跡を願うしかないのだ。

 

 

今夜も乙は、一睡もできぬまま朝を迎えることとなる。どれだけわたしが見守っていようが、乙の寝息を聞くことはない。

フラフラと舟を漕ぎながらも必死に座り続け、挙句の果てには床に倒れて起き上がる・・を繰り返す乙に、眠ること一つ与えてやれない無力なわたしは、ただただその姿を見つめるしかないのである。

 

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