罪と罰と字と

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友人の大切なテリトリーを荒らし、傷つけた私は懺悔の最中。そんな最低な人間にさらなる罰が下されたのか、そう捉える以外に受け入れ難い出来事があった。

感情がかき乱され、脳内が整わない。

だが天罰ならば甘んじて受け入れるしかない。人を傷つけたことは、謝罪で済むような表面上の話ではない。許しを請うより友人の傷が癒えることを祈るのみ。

その代償として、私が今こんな思いをしているのならば当然の報いだ。

 

重い足取りでマンションへたどり着くとポストを開ける。

中には一通の茶封筒。

 

(キレイな字だな)

 

遠方の友人からの手紙だった。封を開けると丁寧な字で書かれた手紙が入っている。

内容はありきたりだが、久々に目にする手書きの文字は何度も読み返すほど心を動かされた。

まじまじと文字を見る。筆圧やインクの濃淡が見える。

ーーどんな思いで書いてくれたのだろう。

 

手紙のお礼をSNSで伝える。

「心がキレイな人って、字もキレイって言うからねー」

聞いたことがあるようなナイような自画自賛のコメントが返ってきた。

 

心がキレイだと字がキレイだという因果関係は不明だが、丁寧に書かれた文字はキレイとは別次元の「伝わる想い」がある。

そして字をキレイに書く人は、いつだって3割増しの評価となる。そのくらい文字が美しいことは、その人の人間性すらも上書きするチカラがある。

 

字がキレイではない私は、書道5段の友人の文字を真似したことがある。しかし一文字一文字に集中すると、文字の大きさにバラつきがでたり、真横に書いたつもりが右上に流れたり、まったく美しくない。

 

持論だが、字を書くのが上手い人は文字の大きさが均等で、縦横が真っすぐ揃っている

 

漢字の「縦棒」を真っすぐ下ろすことは、素人にとって難しい作業。ちょっとでも勢いをつけると左右どちらかに流れる。

横棒も同じだ。私は右に上げるクセがあるので、努めて真っすぐ横棒を引こうとペンを進める。だが、プルプル震えて思うように引けない。

逆に勢い任せでサラサラ書くと一見整って見えるが、実際は雑で不揃いな文字列になる。

 

(ここはゆっくり、上下左右を確認しながら丁寧に線を引くことだ)

 

頭の中で何度も言い聞かせながら字を書くことは、本当に苦痛でしかない。だが、もしかするとそんな作業すら「楽しい」と思う人がいるのかもしれない。となると、やはり私は文字を書くことには不向きなのだろう。

 

そんなことを考えながら目の前の手紙を読み返す。

一文字一文字の大きさが同じでバランスが取れている。しかも素人には難しい縦書きだ。勢いに任せてササッと書いた痕跡は一切見当たらない。

 

(イッツ・パーフェクト!)

 

手紙の送り主はノリのいい男性アスリート。見た目からは想像もつかない美文字ゆえ、なおさら驚く。

「字と身体はイケメンなんです!」

いやいや、自分で言うな。

「デジタル最盛期に手書きの字がキレイって、最高の武器でしょー!」

たしかにその通りだ。デジタルでは伝わり切らない要素の一つに「手書きの文字がキレイ」が入る。字がキレイだと必然的に賢くみえる。つまり得しかない。

 

デジタルで伝わらない私の特徴として「声のデカさ」が挙げられるが、それで賢くみえることはない。むしろうるさがられるだけで、さほど得とは思えない。

どうせなら、少しでも自分の評価を上げてくれる要素を持ちたかった。

 

 

罪を償うのに言い訳はいらない。

黙って苦しむべき。

 

ただ、自分になんらかの罰(と捉えるしかない出来事)が下されたとき、少し救われた気持ちになるのはなぜだろう。

それで相殺されるわけでもないのに。

 

 

Illustrated by 希鳳

 

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