「死にたくない」

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自分自身の「勝負事」について思い返した。

麻雀のように相手と接触せずに行う勝負は、自信というよりブラフで勝ってきた。

 

私は強い、私が勝つ。

 

そう思い込む力が勝負を分けてきた。

しかし、格闘技のように相手に直接触れる勝負は少し違う。

 

 

柔術の試合中、明らかな実力差を確信したとき、私は練習の復習をする。

 

「試合をなめるな」

 

そのとおりだ。

だがどうしたって負けようがないのだから仕方ない。

そのせいで負けたとしたら、それは明らかな実力差がなかったということだ。

なめたから負けたわけではない。

 

普段の練習やスパーリングで試してきたことは、あくまで練習中のできごと。

試合という本番の状況で試せる機会などそう訪れないわけで、そんな僅かなチャンスを手に入れたのならば全力で練習の復習に充てる。

 

「なにやってんだ!さっさと終わらせろ!」

 

野次だか応援だかわからない罵声が聞こえる。

 

(うるさいな、いま必死に試してるんだよ!)

 

いくら実力差があるといえ、必死で逃げる相手に技を極めることは困難だ。

ポジションを変えて別の技を試す。

逃げられた。

再びポジションを整え技をかける。

だめだ、極まらない。

 

最近覚えたテクニックを再現したいが、相手も全力で防御するためうまくいかない。

何度か新技にトライするも成功する手応えを感じない私は、手持ちの技で試合を終わらせた。

 

ーー何が足りなかったのだろう

 

試合という本番で試した練習は失敗に終わった。

しかしこれこそがリアルな練習で、試合で通用してこそ技を身につけたといえるのだ。

 

 

逆に実力が拮抗している場合。

いや、実力で劣っている場合に私は何を思うだろう。

 

「負けたくない」

 

あわやネガティブを連想させるこの言葉で勝利を掴んできた。

むしろ格闘技で「勝ちたい」と思って勝ったことなど一度もない。

 

よく、ネガティブな発言はマイナス思考をもたらすと言われる。

 

”言霊”に表されるように、言葉には不思議と強いパワーが宿る。

そして人間の脳は単純なため、口にした言葉を信じてしまう性質があると聞く。

寝不足で朝を迎えたとき、

 

「あーよく寝た!」

 

とウソでも口にすると、それを聞いた脳が勘違いし「よく寝た!」と処理されるらしい。

よって、寝覚めの悪い人にぜひとも試してもらいたいおまじないだ。

 

ポジティブな言葉で表現することは私も賛成。

ネガティブな発言ばかり聞いていると気が滅入るしケチがつく。

 

しかし、

対人競技においてはネガティブを誘う言葉の執念こそが勝負を決める。

 

「勝ちたい」という薄っぺらい表面的な思いには気持ちが入らない。

なぜなら既に実力差を、負けを肌で感じているからだ。

そんな絶体絶命の瞬間に心の底から湧いてくる言葉は、

 

「負けたくない」

 

だけだった。

言い換えると、

 

「死にたくない」

 

と同じ価値、同じ重みを持っている。

この「負」や「死」といったネガティブを連想させる言葉の持つ執念が、死の淵からよみがえらせてくれた。

 

25キロの体重差がある相手に、顔面に乗られて窒息しかけたとき「勝ちたい」などと思えるわけがない。

全身全霊で絞り出した言葉は「死にたくない、負けたくない」だった。

 

その瞬間、自分のものとは思えない馬鹿力で相手をどかして息を吸った。

それと同時に、火山噴火のように猛然と立ち上がり相手に襲いかかった。

 

死にたくない、負けたくないの一心で動いた(動かされた)結果、試合中の記憶がすっぽり抜けている。

 

辛うじて首から金メダルを下げた私は、ハムストリングスと大腿四頭筋の肉離れに加え、手首を捻挫し首も痛めた。

 

執念により肉体が限界を超えたのだろう。

 

 

私は清く美しい人間ではない。

薄汚く欲深い女だ。

 

今までもこれからも負の要素を纏い、執念を武器に真っ向勝負を挑む。

 

 

Illustrated by 希鳳

 

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