リュックの紐  URABE/著

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オレはリュックの紐だ。紐といっても肩紐のことではない。

リュックの紐と聞けば、背負う者の肩を保護するための太くてクッションの効いた立派な肩紐が、真っ先に思い浮かぶだろう。そしていつだってアイツにばかり注目が集まるが、実際のところアイツを生かすも殺すもオレ次第だってことに、誰も気づいていないから呆れるぜ。

 

そもそも、荷物の量や重さによって肩紐の位置や感触は変わる。そして、より心地よく背負うために、ニンゲンは肩紐の位置を調整しようとする。そうでもしなければ、リュックに限らず高級なバッグだって使い勝手が悪すぎるからだ。

そんなとき、誰よりも何よりも役に立つアイテムが、このオレってことさ。

 

オレの正式名称は、正直よくわからない。「コキカン」「リュックカン」「調整バックル」「バックル」「アジャスター」「ショルダーストラップ」「調整留め具」などなど色んな呼び方があるみたいだが、オレ的には「ストラップ」とか「アジャスター」あたりがしっくりくるかな。

まぁとにかく、オレを使いこなして初めて、最高で最適なリュックが完成するわけだ。

 

そしてオレの主人は、重たい荷物を詰め込んだリュックを背負っては、いそいそと出かける習慣がある。雨の日も風の日も、灼熱あるいは極寒地獄の日でも、いつだってオレを背負ってどこへでも向かうわけで、その元気と体力は称賛に値する。

ちなみにオレは高性能がウリ。グレゴリーという高級ブランドを代表するオレは、表面の素材がバリスティックナイロンでできている。防弾チョッキとしても有名なこの生地は、強度と防水性そして優れた耐久性が自慢なのだ。

 

そんなハイスペック・タフガイが今、とんでもない状況に陥っている。頼む、誰かたすけてくれ・・・。

 

何度も言うが、オレはリュックの肩紐の長さを調節するストラップだ。普段はあまり目立たず、その存在感すら記憶に残らない"影の実力者"といったところ。

それゆえにオレが困ることなどほとんどないわけで、それどころかオレが活躍する場面も滅多にやってこない——おっと、今はそんな愚痴をこぼしている場合じゃない。

 

オレは今、とんでもない状況に遭遇している。どんなことになっているのかというと、なんと・・頼んでもないのに電車の床に寝そべっているのだ!!!

 

理由は簡単だ。混雑した車内に乗り込んだ主人は、背負っていたリュックを降ろすと、両足で挟んでキープし始めた。車内でリュックを背負っていると、他の乗客の邪魔になる。そのため、前で抱えたり足元に置いたり、それぞれの方法でリュックを保持するわけだ。

そしてこの主人、ガサツで面倒くさがりな性格であるにもかかわらず、なぜか妙に綺麗好きなところがある。たとえば、道端に落ちたチョコは食べるくせに、道端にリュックを置くことができない・・といった具合に。

 

だからこそ今も、こうして自分の足でオレの本体を挟んでいるわけだ。たしかにリュックの底面は宙に浮いている。最低でもサンダルの上に乗っかっているので、リュックが地面に触れることはない。

だが、そのリュックから垂れさがっているオレの存在を、完全に忘れているじゃあないか——。

 

この床は汚い・・いや、正確には不潔である。なぜかこれと比べると、アスファルトの地面のほうが清潔に感じるから不思議ではあるが、とにかく汚い。

トイレの床を踏んだ靴、酔っ払いの吐瀉物を踏んだ靴、ペットの糞尿を踏んだ靴、毒劇物を踏んだかもしれない靴・・・。ニンゲンの靴の底なんて、目に見えない汚物と雑菌、未知のウイルスにまみれている。

そんな悍ましい靴底で踏みにじられた電車の床で、なぜオレが寝そべらなければならないのか。好き好んでこんなこと、誰がするもんか。たのむ、早くオレを床から離してくれ!たのむから、これ以上不潔な状態にオレを放置しないでくれ!!

 

——降車駅についてようやく、オレは空中に浮くことができた。主人はリュックを汚れから守りご満悦だが、このオレが薄汚れた雑菌まみれの床に這いつくばっていたことなど、知る由もない。

そしてコイツ・・いや主人は、自称・潔癖症とかほざいているが、自身の所有物であるリュックの付属品であるオレを、自身の配慮不足で汚してしまったことに気付いていない。

 

灯台下暗しとは、正にこのことだ。こうして「リュックを汚れから守った」と勘違いしたまま、汚染されたオレを室内へと連れ込むのだから——。

(完)

 

サムネイル by 希鳳

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