日本には「仕事納め」という日が存在する。官公庁の慣習にならい、一般企業でも12月28日を年内最後の勤務日イコール"仕事納め"とする会社が多い。とはいえ、今年は28日は木曜日であるため、公休日が土日の会社は29日の金曜日まで業務を行うところも多かった様子。
とくにわたしの顧問先は接客サービス業が多いため、年末年始休業というのはないに等しい。なぜなら、一般企業(・・という括りも妙だが)で働く労働者が休みとなれば、家族や友人らと外食を楽しむ機会が増えるため、飲食業をはじめとする多くの接客サービス業は、むしろかき入れ時でもあるからだ。
しかしながら、そこで働く労働者にも家族や友人はいるわけで、国民全員がそろって外食を楽しむことは、現実的に不可能なわけだが。
ところが外国、とくにアジア系の飲食店は、年末年始も元気に営業する店舗が多い。
旧暦を重んじる中国にとっては、日本(新暦)の正月はおまけのようなもだから、店をオープンさせているのも理解できる。だが、韓国料理店も負けじとオープンしている姿には、潔さというか逞しさを感じのである。
そういえば、コロナ禍で外出自粛だの三密禁止だのをやっていた頃、港区・赤坂の韓国料理店はどこも営業していた。真っ昼間からアルコールドリンクを提供するなど、政府の要請はフル無視で店内が賑わっていたのを思い出す。
「日本政府が、私たちを助けてくれるとは思えない。だから私たちは、自分の力で店を続けていくしかないのよ」
笑いながら、韓国人の女性店長がそう話してくれた。たしかに、助成金だの特例措置だの、コロナによるダメージに対するそれなりの補償は打ち出されたが、とてもじゃないがその金額でどうにかなるほど、現実は甘くなかった。
わたしが行きつけの韓国料理店は、皮肉にもコロナ禍は常に満員御礼だった。客の多くは韓国人だったが、異国の地でたくましく生きる彼ら彼女らの姿には、なんというか尊敬の念を抱かされたわけで、根性勝負?というか性格面で日本人が敵わないことにも納得できた。
誰かを頼って生きることに、慣れ過ぎてしまった日本人。誰かのせいにして自分を守るのが、当たり前となった日本国——。
大企業に勤めれば人生勝ち組で、配偶者が自営業だったりすると「将来が不安だ」などと厳しい目で見る習性が、多かれ少なかれ日本人にはある。
わたしに至っても例外ではなく、大学を浪人したときも、新卒採用された有名企業を3年で退職したときも、そして、社労士として自営業を始めたときも、両親はとても残念そうだった。
おまけに結婚もせずに独り身でフラフラしているのだから、いつまで経っても彼らの不安は絶えないわけで。
「兄弟もいなくて配偶者もいなくて、お父さんお母さんがいなくなったら一人ぼっちになっちゃうね・・」
そう呟く母に、
「なんで? この世で一人ぼっちになることって、想像以上に難しいことだと思うよ」
と答えたわたし。たとえばSNSだったり行政のサービスだったり、一人暮らしの老人があらゆる意味で「一人ぼっち」になるのは、よっぽどの閉鎖的な環境が必要となる。
なんせ今のご時世、インターネットという通信手段がある以上、人間が精神的に一人ぼっちを獲得するのは、至難の業といえる。
さらに、家族だから身内だからといって、自分の世話をしてもらうことが「当たり前」という概念がわたしにはない。冷酷非情の権化のような発言だが、人間には人それぞれの人生があり、それを阻害する権利など誰にもないと思っているからだ。
愛情や依存心、あるいは義務感から介護をするのが「悪い」とは思わない。だがそれは、介護者が自発的に選択した場合に限る。「そうするべきだ」という固定観念は、当事者を不幸にするからだ。
とはいえ、一人ぼっちの哀れなわたしは、友達が多いわけでもカネがあるわけでもない。よって、いざとなったら一人寂しく、この世を去るかもしれないが、それはそれで結構だと思っている。
なんせ、ヒトへの執着ほど無駄なものはない・・と考えているわたしは、孤独を恐れていない。とはいえ、物理的に孤独を強制される空間——たとえば真っ暗な空間で寝たきりを強いられるような、生きたまま棺桶に入れられるような行為は、別の意味で恐ろしい。なぜなら、閉所恐怖症の傾向にあるため——はご免である。
良くも悪くも、どこかで自分の話題が出ることを極度に嫌うわたしは、できれば他人の記憶に残りたくないと願っている。
傍若無人な振る舞いからも、目立ちたがり屋に思われがちなのだが、実際のところ、目立つ行為は好きではない。正確には、「目立った結果、わたしという存在が他人の記憶に残ることが嫌」なのだ。
*
・・などと哲学的な感想を綴った後でなんだが、年の瀬の29日に元気にオープンしている韓国料理店の前を通過した際、今まで張られていた超音波の攻撃装置が撤去されていることを知り、驚きと喜びをしたためたかっただけなのだが、方向が随分とズレてしまったのである。
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