雨や雪の日の心配事といえば「靴」だ。私は自慢じゃないが、長靴やレインブーツを持っていない。それは「貧乏だから」とか「家が狭くて置く場所がないから」という理由のほかに、履いたら最後、一人では脱げなくなるからだ。
その昔、AIGLE(エーグル)でお洒落なレインブーツを買った。エーグルといえば「ラバー素材のレインブーツ」が有名な、上品で洗練された乗馬ブーツ風の長靴が代名詞のブランド。それを両足に装着し、ミニスカートとジャケットで表参道を闊歩すれば、それはそれはオシャレさんになること間違いなし。
私は25センチのレインブーツをネット購入すると、雨の日を心待ちにした。
それからしばらくして、たしか梅雨シーズンだったと思う。いよいよ待望の雨が降った。私はクローゼットの隅からおニューのレインブーツを引っ張り出すと、ウキウキしながらつま先を突っ込んだ。程なくふくらはぎがブーツの入り口に挟まるも、上部を両手で掴んでグイグイ奥へと蹴り込んだ。くるぶしの辺りがクシャッと折れそうになるが、それでも強引に靴底まで足の裏を押し付けることに成功すると、完璧なオシャレさんとなった私は意気揚々と家を出た。
「異変」は駅に向かう途中で起きた。なんと靴下が脱げそうになっているのだ。かかかとを地面に蹴りつけるようにして、何度か靴下を戻す。だが数歩も歩くとまた脱げてくる。歩き方が悪いのかもしれない、と思った私はできる限り足首以下を動かさないように、つまり「すり足」のようにして歩いてみた。だがまったく関係なく靴下は脱げてくる。もはや土踏まずで丸まっている靴下は、不快以外のなにものでもない。
「中途半端に靴下が残っているほうが、気持ち悪いのではないか?」
と考えた私は、電車に乗るとつま先をムニュムニュ動かして自ら靴下を脱いでやった。つまり今、長靴の中には素足と靴下が入っているわけだ。ところが、これもまた不快であることこの上ない。もしも靴の中に小石などの異物が入っていたら、我慢することなくすぐさま脱いで排除するだろう。それなのに、靴下という大きな異物をそのままにして歩き続けることなど、梅雨の不快感に加えて不愉快でしかない。
友人と落ち合った私はカフェに入ると、すぐさま長靴を脱いで靴下を履き直すことを試みた。
席に着くと注文よりも先にブーツを脱いだ。いや、脱ごうとしたがびくともしなかった。ブーツ上部の「筒」がふくらはぎに密着しているのだ。そこへ無理やり指をねじ込んだら、ワッシャーをかませたようにさらに固定されてしまい、指を引っこ抜くのに一苦労。それを見ていた友人が、
「アタシがこっちから引っ張ってあげるよ」
と提案してくれた。表参道のカフェのテーブルの下で長靴をグイグイ引っ張り合う姿は、シュールでしかない。だが驚くべきことに、長靴はびにょーんと伸びるばかりで上部の位置が変わらない。そう、ふくらはぎで密着したブーツ内は汗による湿気が充満しており、ピッタリ密閉された空間ができていたのだ。
「もう一度、指で隙間つくって空気を送り込んでみるよ」
焦る私は真顔でそう伝える。そして人さし指を腓腹筋あたりからグリグリと突っ込んでみた。ところが、人さし指の長さよりもさらに奥の部分で真空状態ができているため、指では空気を送り込めない。
この時点で私はかなり焦っていた。なぜなら、仮にいまブーツが脱げたとしても、帰宅時にどうしたらいいんだ?一人でどうやって真空状態のブーツを脱げというのだ?ましてや時間が経てば下肢に水分がたまるため、今よりもふくらはぎの外径が広がるんじゃないか?そうなれば、もはやブーツを切り割くしか方法はない、ということにならないか?
――恐怖に近い不安でパニックになりかけた私は、語気を強めて友人にこう頼んだ。
「壊れてもいいから、とにかく引っ張って!」
その後は地獄絵図のようだった。長靴は原形をとどめず、直角に曲がっていた足首部分は真っすぐに伸び、友人は両手でつま先とかかとを掴んで後ろ向きに引っ張っている。私はその力に引きずられないように、自らの太ももを両手で抱えながら、綱引きならぬ「ブーツ引き」を繰り広げた。
最終的にはテーブルに備え付けのナイフとフォークを使って、ふくらはぎを押さえつけるように、そして入り口を広げるようにしながら、さらに力強く引っ張ってもらった。
ポンッ!
という音が聞こえたか聞こえないかは覚えていないが、そんな音がしなければおかしいほどに密閉空間だった長靴から、私の太い足は脱出することができた。靴下を履き直した私は、床にブーツを横たえるとそこへ両足を乗せた。注文を終えた友人は、どこからかビーチサンダルを買ってきてくれた。
そして二度と、そのレインブーツに足を通すことはなかった。
*
その後の私は、クロックスやビルケンシュトック、UGGのようなサンダルタイプの靴しか履かなくなった。そのため、雨が降ると必ずかかとが濡れる羽目に。
夏場はまだいい。素足でサンダルを履く分には、足もサンダルも水洗いすればいいからだ。しかし冬はそうもいかない。ましてや今日は雪というか霙(みぞれ)のため、路面はベシャベシャの大根おろしまみれになっている。どうしたってサンダルも靴下もびしょ濡れになる――。
そこで私は、素足にビニール袋を履き、その上から靴下を履き、そしてサンダルに足を納めた。見た目は完璧、足も濡れない、なんと素晴らしいアイディアだ。
そして予定を終えた帰り道、ふと、靴下が濡れていることに気づく。
(夜も遅いし人も少ない。靴下の上からビニール袋を履いてみよう)
どうせなら、
「足だけでなく、靴下も濡れないほうがいいんじゃないか?」
と思ったのだ。そこで私は靴下の上からビニール袋を履き直し、再びサンダルへと足を突っ込んだ。たしかに、サンダルの隙間から霙(みぞれ)が染みこんできても、ビニール袋で靴下も素足も守られる。見た目はアレだが問題ない。
こうして帰宅した私は、ビショビショになったビニール袋を脱ぎ捨て、同じく、ビニール袋装着前にすでにビショビショだった靴下を洗濯機へ放り込み、ビショビショの靴下のおかげで冷たくなった素足で風呂場へと駆け込んだ。
(どのみち靴下は洗濯するし足は洗う。ビニール袋なんて履く必要なかったんじゃないか――)
いいんだ。愚者は経験に学ぶものなのだ。
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