白い鼻毛、白い耳毛。

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わたしにとって非常に恐ろしい事件が起きた。だがそれは、あくまで個人的に恐ろしいだけで、世間一般では「その程度のことで騒ぐなよ」というレベルの話。そのため、誰かに相談することもできず、ただただ恐怖に怯えているのである。

人によって食べ物の好き嫌いがあるように、恐怖の大小は個々の感覚によるもの。だからこそ、一概にバカにしたり軽視したりはできないが、常識的に考えても「恐れるほどのことではない」という自覚があるので、わたしはじっと堪えているわけだ。

 

いったい何に怯えているのかというと、今朝、出掛ける寸前に黒いホコリが足元を転がったのだ。「なんでホコリがあるんだ!」と苛立ったわたしは、すぐさまホコリを掴んでゴミ箱に捨てようとした。するとなぜか、そのホコリはコロコロと転がり続けたのだ。よく見ると、いや、よく見なくても、それは小さな蜘蛛だった。

わたしにとって、この世で最も恐ろしい生き物は蜘蛛である。大きさや色合いによらず、とにかく蜘蛛ならば怖いのだ。よく「家にいる蜘蛛はいい虫なんだよ」と言われるが、それとこれとは別の話。たしかに蜘蛛は、衛生害虫や農業害虫を捕食する「益虫」であるが、だからといって好意を抱くことはない。

 

そういえば犬嫌いの友人が言っていたが、彼女は小さなサイズの犬であっても、犬というだけで恐怖を感じるのだそう。その感覚とまったく同じである。蜘蛛であれば、デカかろうが小さかろうが、カラフルだろうが透明だろうが、視界に入った瞬間に鳥肌が立つのである。

そんな「恐怖の象徴」である蜘蛛が、なんと、目の前の床を転がるように走り去ったのだ。しかも、パーテーションの隙間から冷蔵庫の裏側へと消えたため、最終的にどこへいったのか確認することができなかった。

とはいえ、仮に目の前で立ち止まってくれたとしても、わたしが蜘蛛を捕らえることはできないため、ただ単に「にらみ合い」が続いて終わりである。だが経験上、ゴキブリは比較的「にらみ合い」に応じでくれるが、蜘蛛はすたこらさっさと逃げていくので、もはやなすすべ無しなのだ。

おまけに、手で触れるのが怖いからといって「フーッ」と吹き飛ばそうものなら、ふわっと空中に舞い上がり、あらぬ方向へ浮遊するからなお恐ろしい。

 

待ち合わせに遅刻しそうだったので、あの小さな蜘蛛は「気のせいだ」ということにして、わたしは家を出た。そして先ほど帰宅したのだが、玄関から神経を尖らせて「黒い小さな動くホコリ」を探したにもかかわらず、案の定というか今のところ発見できていない。ブラインドの裏側やピアノの下、冷蔵庫や洗濯機の奥まで隈なく確認したが、あの蜘蛛は忽然と姿を消した模様。

これで「ひとまず安心」とはならないことくらい、誰にでも分かるだろう。なぜなら、もしも寝ている間に蜘蛛が現れて、耳や鼻から体内に侵入されたら大変なことになるからだ。

「白い鼻毛が出てるよ。あれ?白い耳毛も出てる」

などと指摘された日には、蜘蛛が体内で巣を張っている証拠となるわけで、そのような地獄絵図だけは避けたい。ということは、就寝時は穴という穴をすべて塞いだ状態で眠るしかないのか——。

 

小さな穴だったとしても、無理矢理こじ開けてくる危険性を憂慮し、とりあえず目はアイマスクで防御することにした。そして耳はイヤフォン、鼻と口はマスクでガードすれば完璧である。これで今晩はなんとか眠ることができるわけだ。

(し、しまった!イヤフォンが、骨伝導だった!!)

最悪の事実に気が付いた。そう、わたしが持っているイヤフォンはすべて骨伝導のため、耳の穴に突っ込むタイプではなく、こめかみあたりに装着する形状だったのだ。

——まずいぞ、これでは肝心の耳の穴が野ざらしになる。ちょうどあの蜘蛛が入れるであろう直径のため、ますます狙われやすいではないか。翌朝、耳が聞こえなくなっていたり、耳の穴から白い糸が垂れていたりしたら、間違いなくわたしは失神する。

 

室内にある「耳に突っ込めそうなモノ」を探してみる。アーモンド、キューブチーズ、ヘーゼルナッツ、キャラメルポップコーン。どれも寝ている間に耳からこぼれ落ちる可能性が大きいため、さすがに試す気にはなれない。

現実的なところで、テーピングを丸めて突っ込むか——。

と、その時わたしは閃いた。自画自賛だがこれは天才的なアイディアである。それは、タオルで顔面から耳までを覆って、後ろを束ねてゴムで縛るというものだ。運よく、我が家にはガーゼ素材のタオルがある。あれならば通気性も抜群で苦しくないはずだ。よし、これで蜘蛛の恐怖から解放される!

 

とはいえ、あの蜘蛛が見つかるまでは毎晩、タオルを顔に巻いて眠ることになる。本当の安眠が訪れる日は、いつになるのやら。

 

Illustrated by 希鳳

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