ネットの世界というのは、まことに不思議である。
実際に会ったことも、話したこともない相手と、あたかも前から知り合いであるかのように、親身になって相談をしたりされたりするのだから。
しかも深夜3時にメッセージのやり取りをするなど、夜勤以外にはあり得ない。だがそれすらも苦痛に感じることなく、ごく普通に進んでいくから不思議である。
とはいえ、こうした「不可思議なやり取り」が可能なのも、ネットならではの事象。
とくにInstagramは、共通の趣味や関心事で繋がっているため、わりと会話が噛みあうのだろう。
ちなみに今夜の相談相手も、やはり実際の知り合いではない。というかむしろ、わたしが先に乙(おつ)の相談をさせてもらった、恩人の獣医師である。
先日、飼い犬の乙の手術について、色々な方から情報提供や励ましのメッセージをもらったが、中でもこの獣医師には非常に感謝している。
当時、深夜にもかかわらず、乙の病状や手術の内容、術後のリスクなどについて懇切丁寧に説明を受けた経緯がある。
そして驚くべきことに、わたしが相談をした数日後に「逆相談」を受けたのだ。
まるで、ナンパしたら「逆ナン」されたかのような表記だが・・・。
しかし、これまた不思議な出会いである。わたしが知りたい情報を持っていた相手(獣医師)が、逆にわたしが持っている情報(Webライティング)について知りたかったのだから。
こんな偶然があるのだろうか?
まぁ、それも含めてネットの出会いとは不思議なものなのだ。
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そういえば、「相談」というものは、気心知れた相手じゃないほうが話しやすいケースもある。
純粋に「知りたいことを教えてもらうだけ」であっても、自身の立場や関係性によっては聞きづらい場合もあるからだ。
ところが、見ず知らずの…というか、ネットでの繋がりしかない相手であれば、恥ずかしがることなくすべてをさらけ出せるもの。
そしてこちらも見ず知らずとはいえ、頼られているからには「誠意を持って対応しなければならない」という気持ちになる。いや、むしろ見ず知らずだからこそ、きちんと対応しなければならないのか。
実際に、超プライベートな相談をされたことがある。
さすがにここでは書けないが、他人には相談できない悩みを抱えて生きてきた「ソノヒト」は、偶然、Instagramで知り合ったわたしに悩みを打ち明けたのだ。
いまだに、なぜわたしなのかはわからない。だがきっと、偶然中の偶然が重なった結果、わたしだったのだろう。
そう考えると、TwitterやInstagramの優れた点というのは、アカウントと本人が一致しないことかもしれない。
必ずしも本人丸出しではないからこそ、むしろ、架空の人物を装えるからこそ、本音で話ができるのだ。
その結果、明日もまたくだらない現実を歩む気になったのならば、架空の人物としてアカウントを作った甲斐があったわけで。
それにしても、昔の人はよくぞ「遠くの親戚より近くの他人」などと言ったもんだ。
まるで、今のネット社会を想定していたかのようなことわざじゃないか。
とはいえ、本当に大切な距離というのは物理的な近さではなく、心?脳?感覚?よく分からないが、目に見えない距離なんじゃないかと、最近つくづく思うのである。
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