和太鼓フェスのパリピ

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世の中の浮かれポンチどもは、8月といえばやれ花火だの野外フェスだのと浮足立っている。ところが、究極の大和撫子であるわたしは、そういった落ち着きのないイベントには興味を示さない。

とくに「フェス」とかいう、パリピが群がる音楽イベントには反吐が出る。自然豊かな屋外で、洒落たアルコール片手に「ウェーイ」などと調子に乗る精神が理解できないのだ。音楽が何たるやを理解せず、ただただその場の雰囲気に流されて開放的な気分になってしまうという、人間として脆弱な部分を露呈するだけの絶望的な空間ではないか。

 

たしかに、大自然でソフトクリームを食べれば、それはエアコンの効いた屋内で食べるそれとは大違いだろう。写真撮影もそうだが、室内の光と屋外の明るさとでは、明らかに画質が違う。外で撮影するほうが何倍も美味しく見えたり、キレイに見えたりするからだ。

とくに「おむすび」が顕著な例といえる。いうなれば、屋外でこそ頭角を現す食べ物の代表選手が、おむすびだからである。冷たくなった塩むすびだろうがなんだろうが、太陽の下でかぶりつけば、それこそ最高の食事となるのだから。

 

そんなこんなで、イマドキの軽薄なパリピを尻目に、わたしは日本の伝統文化で「ウェーイ」ならぬ拍手喝采を送るべく、亀戸へと向かった。ほら、もう亀戸という地名からして和一色ではないか。

そして、浮ついたパッパラパーとの格の違いを示す音楽として選ばれたのは、そう、和太鼓である。

 

なにを隠そう、わたしは太鼓初心者ではない。今回が二度目の鑑賞ということで、もはやプロといっても過言ではないだろう。なんせお供に連れて行った後輩など、太鼓のコンサートと聞いて目を丸くしていたほど。それほど太鼓を鑑賞する機会、しかもプロの奏者による和太鼓の演目に触れる機会など、そうあるものではないのだ。

たしかに、わたしが「太鼓の演奏会」というものを知ったのは、たまたま友人が和太鼓奏者だったという偶然からである。太鼓集団天邪鬼で活躍する彼女は、元はといえばわたしの顧問先の従業員だった。そこからの縁で、前回の演奏会へ招待されたのである。

 

正直なところ、初鑑賞となる前回は驚きと感動ばかりで浮足立っていたわたし。まさに、フェスで浮かれるパリピと同じ状況だったわけだ。しかし今回は違う。すでに免疫ができているため、冷静に太鼓の音色に耳を傾け、自由に太鼓の振動に身をゆだねることができるからだ。

その証拠に、奏者を見ているだけで音色の違いがわかるのである。正確には、太鼓を打つ姿も含めて奏者の特徴や感性などを感じられるようになったのだ。もはや和太鼓の音色は、クラシックにも劣らぬ崇高な芸術みを帯びているのである!

 

・・とまではいかないが、メロディーラインがあるわけでもない太鼓の演奏に、起承転結のような曲の変化とクライマックスへの高揚感を見出すことができるようになった。これは単純に、前回の記憶が残っていたことから先の予想ができたというだけだが、それでも、和太鼓の持つ芸術性を語るには十分な要素である。

さらには、演奏途中でバチが折れても何食わぬ顔でスペアのバチに取り換えたり、太鼓の位置がずれてきてもさりげなく元へ戻したりと、演奏以外でも驚きの神対応を目の当たりにした。

——これぞプロが成す技。

 

それにしても、たとえば今どこを演奏しているのか分からなくなったり、あるいは突然譜面が飛んでしまったりした場合、どうやって復活するのだろうか?

一糸乱れぬバチさばきに一瞬の不調和が出た場合、それはマスゲームで一人だけパネルの色を間違えたかのような、取り返しのつかないミスとなる。そんな極度のプレッシャーを抱えながらも、彼ら彼女らはエネルギーに満ちた笑顔をたたえている。なぜだ、なぜなんだ——。

 

・・・まぁ、そんな難しいことは考えずに、和太鼓のリズムと響きに身も心も委ねよう。そう、フェスのパリピどもと同じように。

 

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