悪魔のエスカレーター URABE/著

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現実世界を生きながらにして、まるでゲームの世界に身を置いているかのような錯覚に陥ることがある。

仮想現実ではないが、あたかもそうであるかのような、なんとも無機質で鈍麻な感覚に襲われるのであった。

 

 

オレは今、エスカレーターを逆走している。ゆっくりと、一歩ずつ踏みしめながら下っている。

 

数秒前、上りエスカレーターを下りる直前で、ステップから離れることができない緊急事態に遭遇したオレは、やむなく向きをかえると静かに後退を始めたのだ。

 

しかしゆっくり歩いているからこそ、さっきから同じ場所で足踏みをしているのだが、それでも一向に構わない。

とにかくオレの足が、終着点を踏まなければいいだけの話だからだ。

 

オレは今、いわゆる「右側」を下っている。ルール違反だとか危険だとかを抜きにして、急いでいる人が時間短縮を図ろうと「歩く側」を、下っているのである。

たまたま、利用客の少ない時間帯であることも幸いし、上りエスカレーターを下りるオレとぶつかる奴はいない。

仮に下のほうから歩いてくる客がいても、途中でオレの存在に気づいて、左側に避けてくれるのでトラブルにはならないのだ。

 

早歩きもしくは軽く走れば、もっと早く「乗り口」まで戻ることができるが、別に急いでいるわけではない。

ただ単に「降り口」に着地しなければ済むだけのことなので、なんならこのまま延々と歩き続けても構わないくらいだ。

 

(さて、そろそろかな・・)

 

案の定、女性の悲鳴が聞こえる。続いて子どもの泣き声が響いてきた。

彼女たちの状況はまさに、阿鼻叫喚の地獄絵図といったところだろう。想像に難くない分、回避できなかったことを哀れに思う。

 

その間も、堂々と上りエスカレーターを下りるオレを、不審げに見上げる客たちとすれ違う。

つま先から頭のてっぺんまで舐めるようにオレを見回しながら、ゆっくりと地獄へ向かう哀れな民を静かに見送った。

 

(オレのことをそういう目でみたこと、十数秒後には後悔するぜ)

 

人間なんてものは、目で見たものしか信じない低レベルな生き物だ。このエスカレーターだって、自動でオレらを運んでくれるわけだが、その先に何があるのかなんて考えたこともないだろう。

普通ならばその先には降り口があって、さらに先には改札があるわけで、それ以外にどんな異常事態が起きるというのだ。そう、つまり想像できないのも当たり前。

 

だがオレは違う。オレは常に有事を想定しながら生きている。だからこそ、今回のアクシデントも直前で回避できたのだ。

 

――ようやく真ん中辺まで戻って来た。さっきまで逆立っていた脳内の神経が、やや穏やかに首を垂れはじめたのを感じる。

それではそろそろ、なぜオレがこのような非常識な行動をとったのかを説明しよう。

 

なにも気まぐれでこんなバカげたことをしているわけじゃない。ちゃんとした理由があるのだ。

 

 

5分前。オレは電車を降りると一目散にエスカレーターを上り始めた。

前には誰もいないため、遠慮なくドカドカと歩いてやった。すると間もなく、降り口に近づいた。

 

改札を出たらコンビニに向かおうか、真っすぐ帰宅しようかなどと考えながら、最後のステップが降り口に吸いこまれようとした瞬間、オレは眼下に広がる信じがたい光景に卒倒しそうになった。

 

そこには、大量の吐瀉物がぶちまかれていたのだ。

 

ステップから離れた右足を、すかさず右後ろのステップに戻すと同時に、オレは上りエスカレーターを下り始めた。

間一髪で危機を免れたことに安堵しつつも、あの悍ましい光景が脳裏に焼き付いて離れない。とはいえ、冷静な判断力を失いそうになりながらも、今できる最善の策をとったと自負している。

 

嘔吐した人間に殺意が湧くが、今はそれよりも安全な状態で改札を出ることが先決。まずはエスカレーターを下りて、階段に切り替えて上り直すとしよう。

身の安全が確保されたら、どうせまだそこらで倒れているであろう嘔吐した人間を探し出して、吐瀉物の始末をさせよう。

 

きっとこれはゲームの世界なんだ。じゃなきゃ、こんな悪質な偶然があってたまるか。

とにかく犯人を捕まえて、一滴残らず処理させてやるさ。(了)

 

サムネイル by 希鳳

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