スポーツ競技の試合において、絶対に確保しなければならないものとは何か。それは、水だ。何をさておき、水だけは余裕をもって確実に用意しておかなければならない。
とくに海外では水道水は飲めないため、ホテルを出る時点で4リットルの水を背負って出かけたことすらある。とはいえ海外の試合会場はほぼ間違いなくクレジットカードで飲み物が買えるので、現金を持っていなければ飲み物にありつけない日本よりは安心かもしれないが。
そして今日、わたしは水1リットルを積んで試合会場へと向かった。
だがどうしたことか、朝から体調がすぐれない。体調不良というよりは、やたらと眠い。さらに喉が渇いてしかたない。
ブラジリアン柔術は試合直前に体重測定を行うため、事前にある程度調整しておく。わたしの場合、気分次第だが2キロほど少なく体重を見積もっておく。これにより、当日何をどれだけ食べても大丈夫、というセーフティーリードを確保できるからだ。
そんな余裕を持った状態で家を出て、電車で爆睡しながら下車駅を通り過ぎ、終点で目を覚ますとあわてて折り返しの電車に駆け込み、ようやく目的地へとたどり着いた。
しかし面白いのは、わたしと同じように下車駅で降り過ごしたり、乗り換えに失敗して別の方向へ行ってしまったり、快速に乗ってしまい遠くで降ろされたりと、会場へたどり着くまでに電車で失敗した選手がわりと多かったことだ。
それでも平静を装って試合に挑むわけで、強心臓の持ち主の集まりなのだ。
試合開始まで1時間ほどあるが、ウォームアップをしたり仲間の応援をしたりと、それなりに忙しく時間が過ぎた。そして自らの試合が始まる時点で、1リットルの水は半分以下に減っていた。
よりによって今日は天気がいい上に温度も高いため、じっとしていても喉が渇く。それなのにわたしは、後先考えずにゴクゴクと水を摂取していた。まぁ最悪の場合、会場に設置してある飲料水の機械から水を拝借すればいい、と考えていた。
――無料で飲み水を提供するとは、日本はなんと素晴らしい国だろうか!
ペットボトルの底まで3センチとなった時点で、満を持して飲料水飲み場へと向かった。さすがに1リットルは図々しい、半分くらいで十分だろう。
残す試合は無差別級のみ。それさえ終われば水がなくてもどうにかなる。だが試合途中で脱水症状など起こしたら、それこそ恥をさらすようなものだ。試合まではなんとか乗り切らなければならない――。
ほぼ空っぽのペットボトルを振り回しながら、意気揚々と角を曲がった瞬間、喉の渇きが十倍に膨れ上がった。
「使用禁止」
な、なんてことだ。水が飲めないだと?!日本に居ながらにして、飲み水にありつけないなんてことが、あっていいのだろうか!?
だが今はそんなことを議論している場合じゃない。飲み水が底を尽きようとしているのだ。なんとか補給しなければらない。トイレはある、だがトイレの水を飲むことができるのだろうか。少なくとも新幹線の水は飲むことはできないわけで。
トイレの水を飲んだことで腹を壊したら、元も子もない。とりあえず、ツバを大量に溜めて喉を潤すことにしよう。しかしこれもその場しのぎでしかなく、せり上げてくる喉の渇きを落ち着かせることは不可能。
(・・・水を強奪するしかない)
会場内へ戻ると、試合直前でスタンバイしている友人の隣りへそっと腰かける。そして、振るとピチャピチャ軽い音を立てるペットボトルを見せつけながら、静かにこう語り出した。
「水がもうないんだよね」
「ほぅ」
「試合がまだあるんだよね」
「ならば自販機で買えばいいんじゃ?」
「カネがないんだよね」
「・・・・・」
なぜ彼の元を訪れたかというと、手持ちの袋に何本かのスポーツドリンクが確認できたからだ。さすがにそれ全部は飲まないだろう、と踏んだわたしは、それとなく友人の善意を確かめようと思ったわけだ。すると彼は一言、
「あぁそういうことね。後でカネを貸すよ」
と、突き放すように会話を終わらせた。
カネをあげるよ、ならまだしも「貸す」ということは後日返さなければならないじゃないか。あぁ、この世に神はいないのか――。
「あのぉ、飲みかけでよければ水、あげますよ」
突如背後から声が降って来た。見上げると、そこには二人の女神が立っていた。そして大柄の女神が2リットルのペットボトルを差し出してきたのだ。
(おおおお!!!神は見捨ててはいなかったのだ!!!!)
そこにはなみなみと500mlを超える水が入っている。すかさず女神からペットボトルを奪うと、自らのペットボトルへと移し替える。なぜなら、2リットルは持ち歩きに不便だからだ。
そして空のペットボトルを笑顔で返すと、喉の渇きも心も満たされた状態で、わたしはその場を去って行った。
試合会場には女神がいるもんだ。
サムネイル by 希鳳
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