髪の毛の奇妙な冒険

Pocket

 

流行りの漫画を読んでいると、目の前で起きていることや自分が置かれている状況が、現実か否か区別がつかなくなることがある。そして、倫理観が欠如していたり精神的に幼かったりすると、現実を忘れて漫画の登場人物になりきってしまい、犯罪や過ちを犯すことになる。

とにかく今どきの漫画は、人間が特殊能力を使えるパターンが多い。それを読んだ直後に何か変わったことが起きたりすると、自分でもちょいと念じれば何かできるのではないか、と勘違いしたりする。

だが私は、その罠には引っかからない。私はどこにでもいるありふれた人間であり、呪霊もスタンドも出てこない。よって、風も吹いていないのに少しずつ移動してくる一本の長い髪の毛を、祓うことも攻撃することもできないのだ。

 

地下鉄の車内で私は震えた。視界の端から、なにやら黒くて細長い糸のようなものが、こちらへ向かってゆっくりと近づいてくるからだ。最初は気のせいだと思った。気のせいというか、電車のドアの開閉によるものか、あるいは乗客の歩行によって空気が動いたのだと考えた。

だがその物体を凝視した途端、心臓が止まりそうになった。その黒い糸は一本の長い髪の毛であり、途中で絡まりゆるく結ばれた形で、ゆっくりと私の足元へ向かってくるのだ。

目の錯覚でもなければ、風が吹いているわけでもない。乗客らの足は止まっており、誰一人として移動も足踏みもしていない。ではなぜ、あの髪の毛は動いているのだ。髪の毛だけが単体で移動するなどありえない。髪の毛に似た虫なのか?いや、そんなはずはない。あれは女の髪の毛だ。紛れもなく人間の長い髪の毛だ。

 

こんなホラーが現実に起きていいものだろうか。私はちょうどその時、ジョジョの奇妙な冒険をスマホで観ていたため、新手のスタンド使いが現れたのかと、疑わなかったといえば嘘になる。しかしすぐに気を取り直すと、再び動く髪の毛を凝視した。

(やはり髪の毛だけで前進している。そして止まることなく常に動き続けている・・・)

ありえない、絶対にありえない。髪の毛に命が宿り、一人で動き出すことなどあってはならない。かといって目の錯覚ではない。その証拠に、さっきまで一番端に座る乗客の前にあった髪の毛が、今ではその隣りに座る男の爪先をかすめる位置まで動いている。このままでは、あと十秒、いや三十秒もすれば私のところまでたどり着くだろう。

しかもよりによって、座席と並行にまっすぐ進んではいない。若干こちら側に向かって移動しているため、私の前に来る頃には爪先どころか、足の甲の辺りにまで食い込んでくるだろう。となると逃げ場すら失う。

 

髪の毛が床を這ってくるのならば、足を上げればいい。だがもしも足を上げた途端に、髪の毛が止まってしまったらどうする?私はずっと、足を上げた状態で降車駅まで我慢しなければならないのか?

とにかく、正面に座る乗客から奇異な目で見られぬよう、床からわずかに靴底を離した状態を維持する必要がある。堂々と膝を抱えて足を上げたりすれば、誰もがその異変に気づき私の足元を見るだろう。そして髪の毛が一人で動いている姿を目撃し、悲鳴をあげてパニックに陥るはず。それだけは避けなければならない。

 

そうこうするうちに、いよいよ髪の毛が私の足元までやって来た。

(あぁ、一体なんなんだ!貞子の呪いか?頼む、私に何らかの能力を与えてくれ!)

発狂寸前、私は髪の毛のはるか前方に黒い小さな物体を発見した。それは蜘蛛だった。蜘蛛嫌いの私からすれば、移動する髪の毛も恐怖だが蜘蛛のほうがもっと恐ろしい。だが幸運にも蜘蛛はこちらに目もくれず、せっせと前へ向かって進んでいる。

どうやらあの蜘蛛の尻から糸が出ており、それがこの髪の毛にくっ付いてしまったようだ。多分、あの蜘蛛はこの髪の毛を運んでいるつもりはない。むしろ「なんか重いな」と思っているのかもしれない。

――原因さえ分かれば怖いものなどない。足を上げてやり過ごそう!

 

こうして私は、髪の毛が私の足元を通り過ぎるまでの30秒間ほど、わずかに足を浮かせて耐えた。そしてこの時ばかりは、天敵である蜘蛛を応援せずにはいられなかった。

(がんばれ!決して止まるなよ!そうだその調子だ、どんどん進んでくれ!)

乗客にバレることなく、髪の毛は静かに過ぎ去った。そして隣りに座る女の靴に引っかかり、しばらくすれば蜘蛛の糸も切れるだろうと思っていたその時、なんと髪の毛はヒールの甲をスルスルと滑りながら、再び床を這いずり始めたのだ。

 

蜘蛛の糸はよほど頑丈にできているらしい。そしてあの蜘蛛、髪の毛など欲していなかっただろうに、いつまでも重たい荷物を引きずるハメになるとは哀れである。

とりあえず、絶体絶命の危機を乗り越えた私は、再び、ジョジョの奇妙な冒険の続きを見始めた。

 

サムネイル by 希鳳

Pocket