文字で言葉を表現する場合に、わたしが最も忌み嫌うのは「敬語」や「丁寧語」の存在だ。ご存知のとおり、わたしが書く内容は素っ頓狂かつ粗野そのもの。なにより直感でここまで生き抜いてきたため、感情や思考を文字におこすのに余分な単語を使いたくない。できるだけ簡潔に、ダイレクトに、荒々しく突き刺す文を書きあげたいのだ。
しかし場合によっては「ですます調」で書かなければならないこともある。そんなとき、決まってわたしのテンションは下がる。これは不思議なもので、切りっぱなしの言葉で文章を作るとテンポよく形になるが、同じ内容を「ですます調」で書くと非常にモヤッとした凹凸のない文になる。
もちろん、作文の技術がないのが一番の原因であることに異論はない。だが元ネタが尖っている場合や、高ぶる感情をよりストレートに伝えたいときに限って「ですますの壁」が立ちはだかる。要するに、わたしにとってアイツらは「余分な存在」でしかないのだ。
このことを友人に伝えたところ、
「んー、やっぱ難しいんだろうな。敬語にすると雰囲気はガラッと変わるし。だからこそ、手のひら返したように『敬語攻撃』とか仕掛けてくる奴がいるわけで」
という意見をもらった。なるほど、たしかにそれは一理ある。他人と口論になった際に暴言を吐くのは、感情任せの単純な攻撃といえる。その結果、勢いに乗って両者ともにヒートアップするだけで、ムカつきはしても傷つきはしない。
だがあるとき急に敬語を使われると、一瞬にして熱量を奪われるような、それでいて手の届かない深部をえぐられたような、冷酷かつ怒りを助長する効果が生まれる。つまり敬語には感情がこもらない。むしろ感情を抜き取った空虚で渇いた言葉を放ちたいときに、敬語というのは効果的なのだ。
これまで何度も「ですます調」で尖ったネタを文章にしてみた。だが語尾の「~なんです」「~でしょうか」を入力するたびに、わたしのライフポイントが着々と削られていった。
「ならば貴様を握りつぶして、汁になるまで搾り取ってやろうか?」
仮にこんな文章があったとしよう。このような乱暴で恐ろしい言葉を女性が使うことはないが、あくまで仮の話だ。そしてこの一文を「ですます調」で表すとこんな感じになるだろう。
「であれば四方八方からアナタへ圧力を加え、この世に存在しなくなるまで追い込んであげましょうか?」
おや、文字にしてみると「ですます調」でも意外とイケるじゃないか。逆に、落ち着き払った感じが冷酷さを際立たせているというか。
しかしこれはあくまで一例であり、これを続けていくうちに、いつしか語尾の余分なシャラシャラ(装飾物)が邪魔をして、どうも歯切れのわるい文となるのだ。
たとえば「カス」という単語は、たった二文字だが威力がある。「バカ」「クソ」「ザコ」なんかより、さらに低レベルで価値のない存在であることを暗に示す。そんな「誰がどうみても悪い言葉、使うべきではない言葉」だが、時にはその威力を使って臨場感を生み出したい場合もある。
例として、
「あんなカス、ほっとけ!」
というセリフを丁寧に言うと、
「あんなダメな人、相手にしないほうがいいでしょう」
となる。これではダメっぷりが緩んでさほどダメな感じが伝わらない。「カス」を使うときというのは、その他の言葉では代用できないほにど腹が立ち、相手を憎み蔑(さげす)んでいるわけだから。
この剥き出しでトゲトゲの感情に続く言葉が「ですます調」であれば、むしろズッコケてしまう。あふれんばかりの禍々しい怒りをストレートに突き刺すには、多少乱暴でもバッサリ切り落とさなければならないのだ。
だからといって「ですます」や「敬語」は使わない、というわけではない。テンポよく文字を並べたいときには、独断と偏見により「丁寧」は無視する、という意味だ。
その代わり、文章全体を読み終えてガツンとくる痛快な何かがあれば、どうかそれでチャラにしてくれないか?という補足付きで。
このようなセルフハンディキャッピングを敷き詰めることで、自身を正当化する努力を惜しまない、強引で野生的なやり方こそがわたし流。
サムネイル by 希鳳
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