あれは10年前の私

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(あぁ、わかる・・どれほど焦っているのか、どれほどイラつき狼狽しているのか、手に取るようにわかるぞ)

車道へ身を乗り出すスーツ姿の女性が、炎天下を考慮したとしても、なぜあんなに大量の汗をかいているのかがわたしには分かる。なぜなら、あの女性が置かれている状況に、わたし自身が過去に何度も立たされてきたからだ。

 

 

平日の午前9時半、麻布通りは言うまでもなく通勤ラッシュで混みあっている。そして、この時間帯にタクシーを拾うことがどれほど困難極まりないことか、田舎者には分かるまい。

だがわたしは知っている。今ここで空車のタクシーを捕まえるという行為は、麻雀で「北」単騎を一発でツモるくらい・・もしくは、初めての競馬で3連単を当てるくらい奇跡的なことである、ということを。

しかも、こういう時に限って同じような境遇の連中が集まりやすく、タイムリミットに迫られた有象無象が数メートル間隔で散らばった結果、運よく空車のタクシーをつかまえられるのは、後からやってきて一番手前を陣取った空気の読めない奴——というのがオチ。

 

そんな、仁義なき戦いが繰り広げられる通勤ラッシュの麻布通りで、満を持してわたしも参戦することとなった。しかも、身動きが取れないほどのバカでかい荷物を従えた状態で——。

 

 

冒頭の女性は、見た目の若さからいって社会人一年目あたりか。おまけに、この暑さにもかかわらずパンツスーツに身を包んでおり、せっかくの化粧が滲んでしまうほど汗をかいていた。

だが、その汗は暑さによるものだけではない。おそらく、わたしがやって来る5分・・いや10分以上前からそこに立ち、待てど暮らせど現れない「空車」のランプに目を光らせていたのだろう。その焦りと不安がもたらす”あぶら汗”が、確実に混じっているからだ。

 

ちなみに時刻は9時35分——おそらく、10時に待ち合わせをしているのではなかろうか。

彼女よりも後にたどり着いたわたしは、当時の自分と彼女を重ねていた。

(タクシー待ちをする誰もが各々の事情と緊急性を抱えており、置かれた立場や責任が違うことからも優先順位をつけることはできない。なんせ、階段を下りれば地下鉄の改札があるというのに、あえて地上でタクシーを拾おうとするのだから、のっぴきならぬ事情があるに決まっているからだ)

そしてわたしは、当時ここでタクシーを拾う際にはいつも急いでいた。しかも、ただ急いでいたのではなくめちゃくちゃ急いでいた——でなければ、タクシーなんて乗るはずもないのだから!!

 

イライラした表情で遠くを見たり逆サイドを振り返ってみたり、忙しなくタクシーの存在を気にする彼女。かく言うわたしも10時から約束があるのだが、今回に限っては彼女のほうが明らかに優先順位が高い——。

そんな彼女の元へ近づくと、「タクシー待ってるんだよね?」と声をかけてみた。すると「はい・・でもダメです」と、突然の問いかけに驚きつつも泣きそうな表情で答えてくれた。

「じゃあ私はこっちを見てるから、キミはあっちを見ていて。もちろん先に乗っていいから、手分けしてタクシーをつかまえよう」

 

——これぞ人生の先輩としてあるべき姿である。社会人経験の浅い彼女がこんなところで躓(つまづ)かぬよう、社会全体でフォローするのだ。

なんせわたしは遅刻の常習犯であり、むしろ、わたしが遅刻をすることで何らかのバランスが保たれている・・とまで言われているわけで、ここは自分を犠牲にしてでも若い世代にアシストするのが正解。

 

こうしてわれわれは”即席のタッグ”を組むと、空車の赤いランプを探し求めた。とはいえ、当然ながら都合よく現れるはずもないので、暇つぶしがてら目的地を尋ねたところ、「新橋です」と彼女が答えた——あぁ、たしかに新橋ならばタクシーが最短ルートだ。

居ても立っても居られず、頻繫にスマホと時計を気にする彼女を見守りながら、「もしも新たなタクシー難民が現れたとしても、このわたしが盾となり彼女の優先順位を守ってあげよう」と、心に誓うわたし。なぜなら、この状況で最も腹が立つのは”後から来た野郎が、手前で空車をかっさらうこと”だからだ。

 

そうこうするうちに、「ありがとうございます、タクシー呼びました」と、ついにアプリを使ってタクシーを確保した彼女が声をかけてきた。

(そうだな、今となってはそれが正解だろう)

この時点で9時48分、あと10分で新橋までたどり着けるか——。

 

 

余談だが、彼女を乗せるべく「迎車」が到着した直後、その陰から一台の「空車」が顔を出した。そこでわたしは、すかさず手を挙げるとそのタクシーに滑り込んだ。

これはまさかのラッキーではあるが、とはいえ若干の後ろめたさを感じてしまい、彼女が乗る車両を振り返ることができなかった。それでも、どうにかして彼女が10時の待ち合わせに間に合うよう、遅刻常連の先輩として密かに祈るのであった。

(・・若者よ、わたしのようにはなるな!)

 

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