素人が呟く、トリプレッタカップの審査。

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——結局、音楽も食事も根っこの部分は同じなんだな。

わたしは今日、ナポリピッツァの大会審査員として、何十枚もの焼きたてピッツァを食してきた。日本における個人店での開催は、おそらく初の試み。しかも、今回で四回目を迎える大会の名は"トリプレッタカップ"である。

武蔵小山に店舗を構えるLa tripletta(ラ・トリプレッタ)のオーナー兼イオーロ・太田賢二氏の発案により、プロアマ問わず誰もが参加できるナポリピッツァの大会が、トリプレッタカップ。もちろん「誰でも参加できる」とは言うものの、審査には制限時間や使用する材料などの条件があるため、ど素人が飛び込み参加できるほど甘いものではない。

おまけに、ラ・トリプレッタに設置されたピザ窯はステファノフェラーラ社の「FORNO FISSO」で、なかなか触れることのできない名器なのだ。そのような素晴らしい窯を使ってピッツァを焼くことができる"経験"というのも、大会で上位を獲得する以上に価値のあることだろう。

 

実のところ、太田君とわたしは友人であり彼の会社の顧問社労士でもあることから、今大会の審査員として声をかけてもらった流れ。とはいえ、素人なりにわたしの舌は肥えている。とくに、ナポリピッツァに関しては日本全国の名店を行脚しているため、"上手い(美味い)ピッツァを嗅ぎ分ける、味覚と嗅覚を持ち合わせている"と、勝手に自負しているほど。

というわけで、ファンタジア部門とフリッタ部門の審査員という大役を仰せつかったわたしは、太田君の隣りに腰を下ろすと、次々に焼き上がるピッツァと対峙しながら点数をつけていった。

 

「あー、それは・・・」

太田君が小さく呟いた。その視線の先には、生地の準備をする選手の姿があった。

・・余談だが、われわれ素人からすると"料理人が素手で素材を掴んだり混ぜたりすること"への違和感は、あるようなないような曖昧な部分である。近ごろは「おむすびを素手で握るなんて、汚くて食べられない!」という若者が増えているらしいが、わたしにはまったく理解できない感覚だ。トイレから出てきて手を洗わずに握ったとか、ペットを撫でまわした手で作り始めたとかであればまだしも、キチンと手を洗った状態であっても「他人が素手で握ったおむすびは汚い」と感じるのであれば、どうしようもない。

そんなことからも、わたしのように鈍い感覚の持ち主ならば気にならない動作が、神経質なヒトにとってはその料理を口へ運べなくなるほどの嫌悪感となってしまう・・という現実を知っておかなければならないのだ。

 

その上で太田君は、「普段の営業を前提とした調理」を審査基準の前提としていた。要するに、顧客によってはマイナスな印象となる動作・所作は、そのままマイナス評価につながる・・ということだ。

そう言われると、調理台に置かれたダスター(ふきん)で手を拭い、そのまま生地をこねる姿を見ていると、「雑菌は大丈夫なのだろうか」と思わないとも限らない。無論、わたしはそこまでナーバスな人間ではないので、仮に多少の雑菌が混じっていようが、消化器官に影響は出ないのだが。

 

さらに盛り付けについても、

「一枚のピッツァの状態で見栄えがよくても、お客さんが口にするとき・・つまり切り分けた状態でどうなのかも、重要なんだよね」

と、彼なりのピッツァと顧客に対する考えがあった。たしかに、真ん中が空洞になるフリッタは、そこへ具材を詰め込んで揚げるのだが、6人の審査員に切り分けるには、端っこと真ん中とでサイズ的に差ができてしまう。

半円形のフリッタの場合、これはどうしようもないことなのだが、それでも審査員の口に入る「一切れ」だと思えば配慮は必要。よって、たまたま中身が空っぽで、生地のみのフリッタを出された審査員が厳しい評価を下したとしても、文句はいえないのである。

・・このような単純なことは、普段ならば容易に気づけたのかもしれない。だが、個人店での小さな大会とはいえ、選手たちは見事に緊張しきっているのだ。皿を差し出す手がブルブル震えているのを見ると、そんなミスすらも許してあげたくなってしまうわけで——。

 

さらに、「まるでピアノと同じじゃないか!」と、思わず太田君の顔を見入った発言があった。

「日本人が美味いと思うピッツァじゃないんだよね。ナポリ人が認めてくれなければ、それはナポリピッツァとは言えない」

われわれ日本人にとっては、「見た目がそれっぽければいいじゃん?」となりかねないが、たとえば寿司や蕎麦に置き換えたらどうだろうか。日本ならではの料理は、やはり日本人でなければ出せない味や理解できないこだわりがある。それを「見た目が同じだから、問題ない」とはならないのと同じなのだ。

 

そしてどこがピアノと同じかというと、西欧で生まれが楽器と作曲家の曲を、島国・日本の文化風習で育ってきた人間が、完璧に演奏することは難しい・・という部分だ。やはり西欧の学校へ留学したり西欧の先生に師事したりすることで、初めて西欧の楽器を理解し、作曲家の意図に近づくことができるのだ。

「日本人は足音を立てずに歩く。でも、西欧人は靴音を鳴らして歩く。行動様式やリズムの取り方に大きな違いがあるのに、西欧の楽器・曲を完璧に弾きこなすことなどできない」

とあるピアニストからこの言葉を聞いたとき、わたしは衝撃を受けた。あまりに事実であり、ぐうの音も出なかったからだ。だからこそピアニストはこぞって留学するし、バレエや球技などのスポーツも海外で学ぶ傾向にあるわけで。

そこには、教科書だけでは触れることのできない真髄があり、その根っこには文化や風習といった"当たり前の生活"が横たわっているからだ。

 

かくいう太田君も、イタリア・パレルモで修行を積んだ経験があり、ピッツァが生活の一部であるイタリア人と寝食を共にしたことで、感じることや得るものがあったのだろう。だからこそ、なんちゃってナポリピッツァではなく「ナポリ人が認めてくれる、ナポリピッツァ」という険しい道を、歩み続けているわけだ。

 

——美味いピッツァではなく、ナポリ人が認めるピッツァ。

こればかりは、現地で揉まれた人間にしか伝えることのできない・・言い換えれば、日本にいる日本人には触れることのできない感覚だろう。

だが、そんな貴重な感性を太田君を通じて得ることができるならば、日本にいながらにしてナポリへ留学したのと同じ価値がある。そこまで貪欲にナポリピッツァを追求するイオーロがいるかどうかは分からないが、せっかくならば太田君を利用するべきである。

 

残念ながらわたしは料理に興味がないので、いつまでたっても"食べる専門"のままだが、本物を知る者から本物の破片を手に入れる努力というものは、惜しみたくないものだ・・と思う。

 

 

そしてわたしの腹は、見たことがないほど滑らかに膨らんだ。もはやおっぱいがどこにあるのかわからないほど、胃袋は盛り上がり下っ腹はせり出し、妊婦どころかトドかマグロである。

そう・・食べ物の審査員というのは、命がけなのだ。

 

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