私の目の前にいる、大のおとなのオトコがあたふたとうろたえている。わずか数ミリの蚊の存在に、恐れおののいているのだ。
普段のあの勢いはどこへいった?強者の象徴のようなオトコが、刺されたところで何ら影響のない蚊ごときに、なぜ狼狽するのだ?
これは非常に滑稽である――。
そもそも人間は虫を恐れる傾向にある。その典型としてゴキブリが挙げられる。ゴキブリは刺しもしなければ噛みもしなければ、毒を噴霧するわけでもない。にもかかわらず、大人から子供まで男女問わずゴキブリを恐れている。
なぜ危害を加えることのない虫を恐れる必要があるのだろうか。言われてみれば滑稽である。
かくいうわたしは蜘蛛が恐ろしい。毒蜘蛛やタランチュラといった特殊な蜘蛛に限らず、室内をちょろちょろする小さな蜘蛛ですら恐ろしい。
さらに蜘蛛自体ではなく、蜘蛛の巣のほうが恐怖を感じる。あれほどまでに美しい円網を、なんの測量機器も使わずに本能の赴くままに編み上げることができるなど、にわかに信じがたい。人間がフリーハンドで蜘蛛の巣を描いたとしても、実物以上に整然と再現することはできまい。
ベビーチョコ程度の大きさしかない蜘蛛の、どこにこのような能力が備わっているというのか。不可思議であり恐怖でしかない。
足がたくさんついているムカデのような虫も、気持ちのいいものではない。あんなものがワサワサとよじ登ってきたら、さすがに冷静ではいられまい。
同じく、カラフルな毛虫も穏やかではない。体表面に張り巡らされた毒針は、言うまでもなく油断大敵の武器である。だが毒針のない毛虫や芋虫も、決して可愛らしいとはいい難い形状をしている。
叫ぶわけでも異臭を放つわけでもないのだが、にゅろにゅろと体をくねらせて前進するあの姿を見ると、やはりゾッとするのである。
とはいえ、一匹のアリを恐ろしいと思ったことはない。殺人アリと異名をとるヒアリは別として、公園などにいる黒アリを見ても、蜘蛛やムカデのような恐怖を感じることはない。
ところが、家屋を食いつぶす「シロアリ」は、見るだけで背筋が凍り脳みそがフリーズするのはなぜだろうか。
それは、シロアリが「アリ」ではないからだ。なんとシロアリは、ゴキブリの仲間なのだ。よって、人間がゴキブリを見て逃げ惑うように、シロアリを見てゾッとするのは自然な反応だったのだ。
それにしても、ゴキブリにしろシロアリにしろ、あちらから攻撃してくることはほぼない。ましてやゴキブリなど二億五千年前から地球上に存在していた、生物としては人間なんぞよりもかなりの大先輩である。
そんな彼らを忌み嫌うとは、我々人間はいい度胸をしている。
冒頭の話に戻ろう。たしかに、蚊に刺されると数日間は痒み残り、掻きむしってしまうと傷になったり化膿したりする恐れがあるので、刺されないに越したことはない。
しかしほとんどの人間は、蚊を目視あるいは羽音を耳にすると、無駄に慌てふためき手で追い払おうとする。そして人間ののろまな手の振りでヒットするほど、あちらもバカではない。悠々と手の隙間をすり抜けて、または手をブンブン振ることで発生した風に飛ばされて、いつの間にかどこかへ消えてしまうのだ。
それよりなにより、大のおとなのオトコが血相を変えて狼狽するほど、蚊というのは偉大な存在なのだろうか。どう考えても蚊が人間に勝てるとは思えない。加えて、目の前のオトコは人間の中でも強さを誇るポジションに君臨するオトコなのだ。
――嗚呼、なんとも滑稽な光景である。
(了)
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