これは、名前も知らない花屋の店員とわたしとの、いつの間にか築き上げられた信頼関係の物語である。
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月に一度、仕事で埼玉県の秩父市を訪れるわたしは、クライアントである友人のために季節の花を持参するのが習慣となっていた。
わたし自身は、花をもらったところでその後の対処に困るので、できれば食べ物がいいな・・などと思っているような「花より団子」なのだが、誰かに花を贈ることは好きだし楽しみでもある。
だが、花といったらバラとヒマワリの見分けがつく程度のレベルで、旬の花など知る由もない。よって、ブーケを作るにしても何をどう束ねればいいのか、皆目見当がつかないわたしの救世主は「花屋の店員」だった。
池袋駅の西武線改札手前にある日比谷花壇は、季節の花が立ち並ぶ洒落た花屋。そして、美味そうな匂いが漂うパン屋に吸い込まれるように、店先に並べられたいい感じの花々に引き寄せられたわたしは、秩父へ向かう前に必ずここで花を買うことにしている。
・・そういえば数年前、ポイントカード作成を断り続けたわたしに向かって、「じつはLINEでポイントが貯められるようになったんですよ」と、懲りずにポイント獲得を勧めてくる店員がいた。彼女の言い分としては「毎月花を購入してくれるで、せっかくだから貯めてもらいたいと思ってる」とのこと。しかも、5ポイント貯めると300円のクーポンがもらえるため、悪い話ではない。
(スマホで完結するなら、LINE登録してやるか・・)
こうしてわたしは、店員の誘導に乗ってポイントを貯めるようになったのだ。
今思えば、その頃からの付き合いとなる”花屋のとある女性店員”は、偶然にもわたしの担当として接客する機会が多かった。
発車時刻に迫られつつ花を物色するわたしが、わざわざ店員を選ぶことはない。だが、ふと目が合うのが彼女・・というタイミングが多いのも事実。しかも彼女は、わたしが置かれている状況を正しく理解しているため、いつも最速でラッピングを仕上げてくれるのだ。
(時間をかけて丁寧に・・は、ある意味誰でもできるんだよな)
過去の話だが、11時30分発の特急に乗らなければならないわたしが、「発車まであと10分を切っている」という明らかにギリギリの時点で、無謀にも花束のラッピングを頼んだことがある。すると彼女は、鋭い視線で時計を確認すると猛スピードでラッピングを開始したのだ。
「さすがに無理です」と断られる覚悟だったわたしは、逆の意味で拍子抜けした。だが、その手さばきといったら”見事”を通り越して”圧巻”の一言に尽きるものだった。何本かの生花をバランスよく束ねて、底の部分に保水ティッシュを縛りつけると、リボンを引っ張り出しながらハサミでカット・・一瞬も動きを止めることなく、あっという間に花束を完成させてくれたのだ。
「お待たせしました、間に合いますかね?」
時刻は11時28分、彼女の努力を無駄にしないためにも、わたしは全力でホームを駆け抜けたのであった。
そんな彼女は、わたしのわがままを受け入れてくれる寛大な心の持ち主でもある。ラッピングが終わるまでの時間、改札内でコーヒーを買いたいと考えたわたしは、ダメもとで彼女に相談してみた。すると、
「わかりました。では改札の横からお渡ししますね」
と言って、すぐさま花へと視線を落としラッピングを開始したのだ。通常ならば、店内または店頭で手渡すのが原則だろうに、彼女はわざわざ改札まで花を運んでくれる・・と申し出てくれたのだ。
(機転の利くいいオンナだな)
そんなこんなで本日、秩父へと向かう前に紫色のカーネーションとアジサイのブーケを拵(こしら)えたわたしは、例の店員にラッピングを頼むと「中でパン買っていい?」と、まるで長年連れ添った夫婦のような短い会話を交わして店を出た。
特急に乗ることはおろか、発車時刻すら伝えていない。おまけに、花束の受け渡し場所も指定していないが、何を隠そうわれわれには信頼関係がある。無論、互いに確認しあったわけではないが、きっと11時28分までに彼女は改札越しに花束を渡してくれる——そんな揺るぎない自信、いや、確信がわたしにはあった。
こうしてわたしは、改札内にある「メルシー・ライフ・オーガニックス」にて、大好物のクロワッサンや抹茶食パンを買い込むと、11時26分に待ち合わせ場所ならぬ改札付近へと戻ってきた。
(おっと、戻りが早かったか・・)
花束のラッピングというのは、簡単そうに見えて意外と難しいもの。時間にすると最低でも5分はかかる上に、店員はそれに付きっきりとはいかないため、なにか別の対応を迫られればその分だけ完成は遅れる。
そうこうするうちに、アナログ時計の針は27分を回った——特急の発車まであと3分。ここからダッシュでエスカレーターを駆け上がり、ホーム伝いに全力疾走すれば2分・・いや、1分半あれば滑り込むことができる。
とはいえ、立派な花束を抱えてのダッシュは思いのほか自由を奪われるため、残り1分半・・すなわち11時28分30秒を回ったら、もはやアウトと思ったほうがいい。
(今日に限って、特急の話をしなかったのが裏目に出たかもしれない)
しつこいようだが、彼女を信じていないわけではない。言わずもがな出来るオンナなのだから、イチイチ特急の話などせずとも状況は把握しているはず。だが、万が一忘れていたとすると——ダメだ、われわれの信頼関係に亀裂が入ることなどありえない。
特急のチケットは既に購入済みで、これを逃すと次は一時間後。しかも、クライアントとの待ち合わせ時間ギリギリの電車が11時30分発なわけで、仮に花束を受け取れなかったとしても、特急に乗り遅れることだけは許されない。
だがもしもそうなると、五千円の花束がゴミ箱行きとなる・・あぁ、それはそれでかなり痛いじゃないか。
悶々としながらアナログ時計の秒針を見つめるわたし。何度も言うが、わたしは彼女を信じている。今だって・・デッドラインである11時28分を迎えようとしている今だって、心の底から彼女が来るのを信じている。信じているのだが、時間は無情にも過ぎていくではないか——。
どれほど強く祈ろうが、彼女は一向に姿を見せない。いっそのこと、ここから大声で叫ぼうか?「途中でいいから、花束を持ってきてぇ!!」と・・いや、さすがにそんな奇行じみた真似はできない。
(今すぐ走り出さなければ特急に乗り遅れるだろう。とはいえ、五千円のブーケを受け取らずにこの場を離れることもできない。いったいわたしはどうすればいいんだ・・・)
もはや涙目のわたしは、何度もエスカレーターのほうへと振り向きながら、それでも花屋の彼女が現れることを信じて、ただただ残酷な一秒を噛みしめるのであった。どうしよう、もう間に合わない——。
「お待たせしましたぁっ!!」
店から勢いよく飛び出した彼女は、左手に花束・右手に切り花の延命剤を握りしめて、改札横で呆然とたたずむわたしに向かってなだれ込んできた——ほらね、必ず来るって言ったでしょ。
時刻は11時28分43秒・・考える暇などない。とにかく全力で走る以外に、今やるべきことはないのだから。
*
例えるならば、箱根駅伝で繰り上げスタートギリギリのラインにいる選手の気持ちが、痛いほどよくわかった。「頼む、間に合ってくれ」と祈りながらも、タスキを受け取ることなく走り出さなければならない辛さと苦しみ。
そんな絶望的な状況に近い経験を、まさかの池袋駅改札で味わったのだから——。
それでも、われわれのタスキは繋がった。そしてタスキを握りしめたわたしは、懇親の勢いで走り出したのである。
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