日本人にはピンとこない、「人種差別」とか「生命の危機」とか

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「ネットやSNSで情報が拾えるようになった今、わざわざ海外へ行く必要はなくなった」

そう考える人も中にはいるだろう。確かに、海外の言語を学ぶとか日常生活を知るとかならば、ネットを通じていくらでも手に入れられるようになった。さらにGoogle Earthを使えば、リアルな景色を見ることができるため、まるでそこへ行ったかのような疑似体験までできるわけで。

もちろん、それだけでもある程度の学びや楽しみは満喫できるのだが、なんといっても、現地の空気やヒトとの対話から感じる”ある種の違和感や壁”のようなものは、やはり直に体験しなければ絶対に分からない。

 

言うまでもなく、ロジックは理解できるのだが、実際に体験する「圧倒的な格差」のようなものは、どれほど理屈を並べたところでたどり着くことはない。その場へ足を運んで初めて、「あぁこういうことなのか・・」と改めて理解し、納得できるものだからだ。

さすがに”格差”とまではいかないが、ある種の驚き・・というか、自分が生きる世界の狭さを感じたのは、広大な土地と強靭な肉体を持って生きる、アメリカという国で過ごしたからだった。

 

 

たかが二週間でアメリカの全てを知ることなどできるはずもないが、そこで暮らす人々から聞く話には、やはり日本では見ることのできない差別や違いがあった。

その代表例は「人種差別」だ。そもそも多国籍国家として知られているアメリカにおいて、肌の色が異なる人間が集まっているのは当然のこと。そして、肌の色で差別をするなどあってはならないこと——そんな屁理屈は誰もが分かっている。だが実際には、水面下というか見えないところで差別は存在する。

 

「同じ白人でも、ロシア系は仲間外れだよね」

友人がそう教えてくれた。スポーツジムなどのコミュニティでグループができる際、説明せずとも肌の色・・というか出自によって、自然とグループが別れるのだそう。

黄色人種であるアジア系は中間に位置するらしいが、決して上位ではない。さらに、ロシア人は肌の色は白いが、いわゆるヨーロッパ系のグループには入らない(入れない)とのこと。

 

ラスベガスに滞在して、最初のうちは誰がどの国出身なのかは分からなかったが、よくよく観察してみると確かにそれぞれの出自が見えてくる。あぁ、この人はロシア系であっちはイギリスだろう。そしてこちらはフィリピンで、彼はイタリア系——。

一見、仲睦まじくみえる光景が、水面下ではちょっと複雑なのだと思うと、なんとも不思議な気分である。いずれにせよ、わたしは「お客さん」なので、アジア系であっても誰もが親切にしてくれる・・というのがまた、微妙ではあるがありがたいのであった。

 

そして、動かしようのない事実を元に起きる「人種差別」というカーストがある上に、広大な土地を有する国・アメリカと、今のところはそういった差別が存在しない平和な島国・日本とを比較した際に感じるのは、「とにかく日本人は、肝っ玉が小っちゃい」ということだ。

日常的に起きるいざこざやトラブルは、どれもこれも小さなものばかり。加えて、成長の指標といえば常に他人との比較でしかないし、何かを学ぶにせよ暗記の正確さしか求められない。いつでも他人の顔色と世間の評価を気にして、誰かに否定されれば傷つきながらすんなり受け入れる——やっていることが、ものすごく小さくないか?

 

文化や歴史的背景の異なる海外と比べる必要はないのだが、アメリカであれば銃を所持するのが当たり前であり、ちょっとしたことでも銃が登場しかねないリスクを考えると、そんなちっちゃなことでいちいち絡んだりしない。

もちろん、それでも絡んでくる輩は万国共通で存在するだろうが、少なくとも日本人のように、常にイライラと粘着質に構えている者はほとんどいない。その背景には、やはり「生命の危険度の違い」が挙げられるのではないかと思う。

 

実際にわたしが感じた”危機感”について、少なくとも日本にいればこんな「予想」をすることなどないわけで、やはりアメリカという国の根本的な怖さを体感した瞬間であった。

——ある日の深夜、わたしは一人で友人宅の庭にてUFOの出現を待っていたところ、たまたま塀の向こう側に一台の車が止まった。そして、誰か一人が降りた後に、アイドリングが停止してもう一人が降りてきたのだ。

車を止めた道路と自宅との間にある塀の高さはおよそ2メートル、決して高いとはいえない。もしもそこをよじ登り・・いや、塀の上に銃口が現れたとすれば、わたしは一瞬でこの世を去るだろう。

今すぐ家の中に戻りたいところだが、砂利の上に座っているわたしが動けば音がするので、自ら存在を明かすことになる。その音を聞いて撃たれたりしたら、それこそ「余計なことしなければよかった」となる——。

そんなことを考えつつ、身動きがとれないまま数分が経過した。塀の外からは会話なども聞こえず、二人の人間がそこら辺にいるはずなのに物音ひとつしなかった。ところが、ついにエンジンが回る音が聞こえたかと思うと、しばらくして車は発進し消えて行ったのだ——た、助かった。

 

こんなことで怯えるなど、日本では考えられないことだ。あったとしても「銃で撃たれる」という選択肢は皆無なわけで、その分、気がデカくなるのは当然のこと。ちょっとばかし腕に自信のあるものならば、「返り討ちにしてやんよ!」と言わんばかりに待ち構えるかもしれない。

だがアメリカにおいては、そんな勘違いは自殺行為となる。そう考えると、日本人が日々感じたり巻き込まれたりするストレスやトラブルというのは、ものすごく小さくて他愛もないことだ、と痛感するのだ。

 

 

必ずしも、”どれが正しい”と決めつける必要はない。だが、海外へ来ると日本の小ささを再認識させられるため、せめて自分だけでも「井の中の蛙」にはならないようにしよう・・と、改めて兜の緒を締めるのであった。

やはり、体験に勝るリアルは存在しないのである。

 

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