(この寝不足は耐え難いが、それでも一つの成長を遂げたと思えば乙なものだ・・)
ブラインドの隙間から差し込むオレンジ色の朝日を、固く閉じたまぶたの裏で受け止めつつ、わたしは念じるかのようにこう言い聞かせるしかなかった。
*
小さい頃から飛蚊症と付き合ってきたわたしは、真っ青な空や真っ白な壁を見たことがない。いつだって視界の隅には黒い汚れがこびりついており、どれほど振り払おうとしても取り除くことなどできないからだ。
そんなわけで、ふと視界の隅に黒っぽい異物を感じたとしても、十中八九「飛蚊症」。そのため、目を動かすたびに「あぁ、またか・・」と残念に思うのがオチなのだ。
そして今日、いつものごとく自宅にて事務作業をしていると、左前方の白い壁になにやら黒い異物の存在を感じた。どうせまた飛蚊症だろう・・と無視していたところ、なんとその黒い物体は右方向へ移動してくるではないか。しかも、不規則なリズムと進路を刻むということは——間違いなく生き物だ。
そちらへゆっくりと視線を向けると、当然ながら嫌な予感は的中。動く物体の正体は、小さな蜘蛛だった。
わたしはこの世で蜘蛛が最も苦手な生き物である。ゴキブリよりも蜘蛛が苦手なくらい、本当的にダメなのだ。
おそらく、前世がハエや蚊といった飛翔する昆虫だったため、最期は蜘蛛の巣に引っ掛かり蜘蛛に食われて絶命したのだろう——そうでなければ説明がつかないくらい、蜘蛛が苦手なのだ。
とはいえ、さすがにそんなわたしでも「蜘蛛は益虫」という通説くらい耳にしたことがある。個人的には俄かに信じがたい話ではあるが、日本においてはそのように呼ばれているわけで、受け入れないわけにはいかない。
しかしながら、今日の今日までその通説を否定してきたわたしは、自宅で蜘蛛を見つけると半狂乱になって外へと追い出していた。なぜなら、恐ろしすぎて触れることも殺すこともできないからだ。
だが、さすがにこれを続けたのではキリがない。いつかどこかのタイミングで、蜘蛛が益虫であることを受け入れて野放しにする日が来る・・ということを、薄々は感じていた。
そして今日、「ついにその日が来たのだ」と自分に言い聞かせたのである。
(アシダカグモはゴキブリハンターの異名をとるほど心強い奴だし、ハエトリグモは名前のとおりハエを捕食してくれるはず。さすがにニンゲンに危害を加えることはないのだから、見て見ぬふりをしておけば共存共栄できるはず——)
そう心の中で復唱しながら、視線を小さな蜘蛛からパソコンへと移したわたしは、何事もなかったかのように作業を続けたのである。
*
そして深夜——いよいよ眠りに就こうとしたところ、突如、昼間の蜘蛛の存在が気になり始めた。
(そういえば、あれから一度も姿を見かけていないが、一体どこへ行ったのだろう・・まさかじっとしているはずもないし、害虫駆除に奔走しているのかな)
あの小ささでゴキブリを捕食するのは無理だが、それでも何らかの虫をハンティングしていることを期待しつつ、わたしは再び目を閉じた。
(・・・もしも、寝てる間に鼻の穴や耳の穴から入ってきたらどうしよう)
さすがにあり得ないことだが、それでも絶対にないとは言い切れないわけで、そんな一抹の不安に襲われたわたしは、恐怖のあまり目が冴えてしまった。
——ダメだ。ここで眠れば、我が家は蜘蛛の独壇場となる。なんとしても体内への侵入を阻止しなければ。
*
こうして、気づけば朝を迎えていた。
考えてみればなんともバカバカしい話だが、それでも蜘蛛を見逃した事実は変わらないのだから、万が一の危険性を考えるとおちおち寝てなどいられない。
(やっぱり、次に蜘蛛を見かけたら外へ逃がそう)
前世が羽虫であろうわたしは、現世においても蜘蛛と共に暮らすことは難しいのであった。
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