深夜、老人と私

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あわや大惨事・・という一歩手前で、なんとか踏みとどまれたこと、いや、正確には「踏みとどまってくれたこと」に、心から感謝したい。

とはいえ、あの老人は無事に帰宅できたのだろうか——。

 

 

終電間際に最寄り駅へたどり着いたわたしは、ちょっとした考え事に没頭するあまり、周囲への警戒を怠っていた。

そもそも、深夜の暗がりをスマホに釘付けになりながら歩くのは、どう考えても安全とはいえない。その上、耳にはイヤフォンを差し込んでおり、流れる音楽に合わせてリズムをとりながら歩を進めるなど、恐ろしいほどに無防備な状態だった。

 

とはいえ、日頃から痴漢や変質者に対してアンテナを張り巡らせているわたしは、どれほど街灯が少なかろうが怪しげな小道だろうが、精力的に堂々と闊歩している。だが、そんな”みなぎるオーラ”が裏目に出てしまい、準備万端の気迫は空回りに終わるのが常。

もちろん、トラブルになど巻き込まれないに越したことはないので、満員電車でわたしの周りに妙なスペースが生じたり、夜道を歩きながら突然振り返ってサラリーマンを驚かせたりしつつも、平穏な日々を過ごすのであった。

 

しかしながら、今日は特に注意力散漫だったことを後悔している。普段ならば、スマホをいじるといってもSNSを巡回したり明日の天気を調べたり、集中力を要しない作業でしか使わないため、意識は自ずと周囲へ向いている。

しかも、階段やエスカレーターを使う際には、視線はスマホへ落としているにもかかわらずスムーズな歩行が成り立つわけで、現代人に備わった”物理的回避能力”なのではなかろうか・・と思うほど、無意識に周囲を意識しているわけで。

 

このように、わたしだけでなく通行人たちが互いに意識しあって——しかも、無意識レベルで自然に意識しあって——最低限のパーソナルスペースを確保しながら、都会で暮らす人間たちは行動している。

だが、今日に限って調べものに集中するあまり、わたしは視野が狭くなっていたことを認めざるを得ない。しかも、左前方に立っている電柱が死角となり、その先にある横断歩道を渡る歩行者の姿が見えない・・という不運も重なった。加えて、その歩行者が「静かに歩く老人」だったことで、悲劇がより助長されてしまったのだ。

 

いったい何が起きたのかというと、わたしが電柱を通り過ぎた瞬間、音もなく現れた怪しい人影と寸でのところでぶつかりそうになったのだ。

 

首筋から背中まで、鳥肌が立つかのようにゾッとする感覚を覚えたわたしは、次の一歩を踏み出しつつ人影の顔を確認した——そこには、70代後半と思しき男性の姿があった。

状況的には、「横断歩道を渡りきった老人の目の前に突如わたしが現れた。しかしながら、わたしの歩く速度が速かったため、互いに避けることなく衝突を免れた。そして、通り過ぎてからわたしが振り返ることで、老人の姿を確認した」という流れ。

 

電柱の陰からぬっと老人が現れたことで、無防備だったわたしが驚いたのは言うまでもない。だがなぜか、その老人はわたしの背後にピッタリとくっつくかのように、歩みを止めなかったのだ。

(こ、これはまさかの変質者・・・!?)

その瞬間、恐怖やパニックといった感情とは異なる、漲(みなぎ)る何かを感じたわたしは、俯きながらさらに一歩を踏み出そうとする老人の前に立ちはだかった。すると、わたしのつま先に気づいた老人は顔を上げるなり、「あっ」という表情のまま後ろへひっくり返りそうになったのだ。

そして、なんとか踏みとどまったところでこう叫んだのである。

「ごめんなさい、助けてください!!!」

 

——いまいち状況が理解できないわたしは、とりあえずバランスを崩してよろけた老人に手を差し伸べた。ところが彼は、その手を握ることなく逃げるようにして路地裏へと消えていった。

 

(・・・え、これってもしかして、わたしが悪者??)

 

むしろこちらが被害者だと思っていたのだが、実際には(なぜか)わたしに向かってまるで命乞いをするかのように、加害者のはずの老人が謝ってきたわけで、こうなるとわたしが加害者ということになりかねない。

無論、老人に体当たりしたり突き飛ばしたりした事実はなく、向こうが勝手に驚いてよろけたわけだが、いかんせん目撃者がいない深夜のため、裁判沙汰になると厄介。さらに、どう見てもわたしのほうが悪人面であり、フィジカル的にも不利なのは言うまでもない。とはいえ、本当に何もしていないのだから——ちょっと圧をかけたかもしれないが——どうすることもできない。

 

(まぁ、あの老人が無事に帰宅していれば良しとしよう)

 

 

とにかく、老人が転倒することなく踏みとどまってくれたことに、心の底から感謝するのであった。

 

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