地獄に垂らされた蜘蛛の糸

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これがいわゆる「世の常」というものなのだろう。二度あることは三度あるというか、よくないことは続くというか、面白いように予感が的中するのだから笑ってしまう。

 

 

ピアノのレッスンに向かおうと準備をしていたところ、なんとなく体が怠いことに気がついたわたし。なんせ、末端冷え性なのに指先が熱いというのは異常事態である。そんなこともあり、ちょっと迷いはしたがとりあえず家を出た。

 

人間には予知能力が備わっているのでは?と思うときがあり、それは"迷いながらもなにかを行うと、かなりの確率で失敗する"ということだ。よせばいいのに、気乗りしないまま何かを行うと往々にして失敗するわけで、「あぁ、あっぱり・・」と落胆するのが関の山。

だが今回は、ある意味ラッキーだったのかもしれない。移動途中で一通のメールが届いたのだ。

「直前の連絡でごめんなさい。今日のレッスンをリスケさせてほしい」

どうやら先生も体調不良の様子。もしかすると、巷では風邪が流行ってるのかな——。

 

とはいえ、もうすでに電車に乗ってしまったことと、レッスンの前に人と会う約束をしていたので、とりあえずそのまま新宿へと向かったのである。とその時、ふと脳裏をよぎる予感が——あいつ、約束忘れてないだろうな。

数日前に交わした約束だが、直前にリマインドしなかったことから、あわよくば忘れている可能性がある。とはいえ、大した用事ではないので忘れていてもさほど問題ではないのだが、レッスンが消えた今、できればすぐに引き返したい気持ちもある。しかし、大した用事ではないにせよ、わたしから言い出したことをドタキャンするのは気が引ける——。

などと、なんとなくネガティブな考えが渦巻く中、わたしを乗せた電車は目的地へとゆっくり進んで行った。

 

約束の時間ピッタリに新宿駅に着いたわたしは、その時点で確信した——これ、絶対に忘れられてるわ。

そもそも「新宿駅で待ち合わせ」というのは、とてつもなく高いハードルを意味する。どれだけの出口やランドマークが存在するというのか、待ち合わせ場所を指定するだけでも一苦労。それなのに、ざっくりと駅で待ち合わせをしたということは、具体的にどこで落ち合うのかを決める必要がある。つまり、約束の時間前後で「どこに行けばいい?」というメッセージがあって然りなのだ。

無論、わたしからそのメッセージを送ればいいのだが、もしも相手が約束を忘れているとすれば、わざわざ慌てさせる必要もない。しかも、確率は低いがなんらかの都合で到着が遅れている可能性もある——いや、それはない。もしも遅れるならば、その時点で連絡があるはずだから。

 

こうして、新宿駅に降り立ったわたしは改札を出ることなくその場に佇んだ。

(ほぼ間違いなく現れない相手のために、わざわざ「改札を出る」という選択肢はないだろう)

そして「わたしは約束を果たした」という証拠を刻むべく、しばらくその場に居座った。その間、何度も電車が到着しては大勢の乗客が改札を出入りした。みんな、なんらかの目的や用事があってこの駅を往来するのだろうが、なんの用事もないわたしだけがこうしてジッとしているわけで、これもまたオツなものだ・・と妙に感慨に耽るのであった。

 

ある程度十分な時間を費やした後に、わたしは自宅へと引き返した。結局、待ち人は現れなかったが、わたしの中では約束を果たした満足感があり、なぜか清々しい気分に浸っていた。

そして戻ってきた最寄り駅の改札、スマホをかざして通過しようとしたところ、ピンポーンと赤いランプが点いて改札が閉じてしまったのだ。

(あ!どこの改札も出ていないからか・・)

——そう、新宿まで行ったはいいが、結局改札の外へ出ていないため、Suicaの記録としてはこの駅を入ったままなのだ。

 

しかたなく駅員のところへ行くと、目一杯哀れな表情を浮かべてこう言い放った。

「約束をすっぽかされたので、そのまま帰ってきました!」

すると駅員は、ちょっと笑いを堪えるような素振りを見せながら、わたしのSuicaの履歴を確認した。そしていくつかの処理を経た後に、

「本来ならば運賃をもらわなければならないですが、まぁなんていうか、事情が事情でかわいそうなので、僕の判断で今回は取り消しとしました」

と言って改札を通してくれたのだ。

 

——最後の最後で救われた。

 

Illustrated by 希鳳

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