ワイルド残滓

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(か、噛みきれない・・・)

 

わたしはいま、イノシシの背ロースを100回ほど咀嚼している。

目の前には、この高級ジビエを提供してくれた張本人が構えており、イノシシの味についての素晴らしいコメントを心待ちにしている。

 

もちろん、一口、二口ほど咀嚼した時点で最初のコメントを出している。

「うん、新鮮で美味いね!」

先月まで元気に生きていたイノシシを、瞬時にさばいて真空パックし冷凍保存したため、鮮度は抜群。

とくに背脂のフレッシュさは、信じられないほどサラリとした軽やかさがある。脂がフレッシュなどという表現が、伝わるものだろうか。

 

ちなみに、言うまでもないが味付けは完璧である。なぜならここは軽井沢にある有名イタリアンの店。シェフの腕前は紛れもなく本物だからだ。

 

そもそものきっかけは、この店を経営する友人に「イノシシがとれたら持ってくる」と約束をしたことに始まる。

そして先月、体重60キロほどのイノシシが罠にかかり、本日の試食会が開催される運びとなったのだ。

 

野生を生き抜いたイノシシは健康そのもの。山奥でドングリやタケノコを食べたり、土をほじくり返して山芋やミミズを漁ったりして腹を満たしてきた。

さらに、敵から身を守るためにあらゆるアンテナを張り巡らせ、警戒心全開で生きる彼ら。

外敵もおらず、定時にエサをもらえる動物園の動物とは異なり、常に死と隣り合わせの厳しい世界に身を置いているのだ。

 

そんな野性の猛者であるイノシシの肉が、美味くないはずがない。

 

ちなみにイノシシをくれた張本人に、イノシシが罠にかかる状況を人間で例えると、どのような感じになるのかを尋ねてみた。

「オレの場合だけど、モスの照り焼きチキンバーガーが置いてあったら、罠に入って行っちゃうかなぁ」

なにを言っているのだ?

「で、罠の入り口が閉まっちゃうんだけど、とりあえず照り焼きチキンバーガーを食べてから、その後のことは考えるかな」

・・・おまえはイノシシ以下なのでは?

 

ちなみに、吉野家の牛丼ならばどうかと尋ねたところ、

「吉野家の牛丼は、食べるときにテーブルがないとダメじゃん?だから、置いてあっても罠には入らない」

・・・は?

「でも、照り焼きチキンバーガーは手で掴んで食べるから、罠の中に置いてあったらつい手を出しちゃうよね」

と答えてくれた。もうこれ以上、彼に尋ねることは止めにしよう。

 

話がかなり逸れたが、わたしの口の中にあるイノシシの背ロースについて。

ファーストコンタクトの感想として「新鮮である」ことを伝えた。そこからさらに10回ほど咀嚼を続けると、肉の繊維がすりつぶされ、ジューシーな旨味とともに肉の大半が胃袋へと送り込まれていく。

とりあえずそこでも追加で一言、

「うん。しっかりした噛み応えと、ジビエ特有のワイルドな旨味を感じるね」

と、よくわからないがそれっぽい感想を述べた。対面に座る友人は、満足げにその言葉を受け取る。

 

(これ以上いったい何を言えばいいのだ。残すは、すべて飲みこんだ後のあのセリフのみ)

 

完全なる野生環境で人生を全うしたイノシシは、澄んだ脂とジューシーな赤身をまとっている。さらに、ナイフでもなかなか切り割くことのできない、タフなスジがこびりついている。

そして脂はいつの間にか咀嚼により溶けて消えたが、赤身とスジがもみくちゃになって口内に取り残されている状況。

 

そんなわたしに現時点で課せられる責務は、この肉の残骸をゴクリと飲みこみ、口内を空っぽにして一息ついたところで、

「あぁ、うまかった!」

と大袈裟に喜ぶことだ。ここまでが、一つの肉片に対する味の感想であり、この世を去ったイノシシへの弔いでもある。

 

ところが何十回咀嚼をくりかえしても、強靭な野生のスジを噛みきることができない。

まるで味のないガムをくちゃくちゃと噛み続けるかのような、いや、そこまでの弾力すら失った無意味なたんぱく質の亡き骸が、成仏されずにこの世に居座っているかのような執念すら感じる。

 

「ならば丸のみしてやろう」とタイミングを計るも、肉一切れが大きすぎるのか、うまくいかない。それでも必死に勢いをつけて、なんとか嚥下にトライする。

 

(くっ、ダメだ。どうしても飲みこむことができない)

 

もはや額に脂汗が浮いている。しかしこの事実を相手に悟られてはならない。なんとかやり過ごさねば――。

 

こうしてわたしは、すでに100回を超える咀嚼を継続している。そして友人との会話も上の空で、いつどのタイミングで野生の残滓を始末するべきかと、かなり真剣に考えている。

 

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