「これはもう、後でミーティングだな・・」
上司からそう吐き捨てるように言われたわたしは、目の前が真っ暗になるほどのショックを受けた。あぁ、やってしまった——。
*
規模の大きなブラジリアン柔術の大会では、黒帯のみがマットの近くまで入れるという特別なルールがある。とはいえ、黒帯ならば誰もが入れるわけではなく、チェックインをして「Black Belt」と書かれた腕輪を巻いている者だけが許可されるのだ。
・・まぁ一人で参加しているわたしが、わざわざ腕輪をもらってまでマット近くへ行く必要もないので、選手としてのチェックインのみを済ませると会場内へと入っていった。
基本的に一人で行動するわたしは、今回も会場の隅っこで一人静かに出番を待っていたのだが、そんなわたしのところへ別支部の会員がやってきた。本名は知らないが、通称「監督」と呼ばれており、見るからに会社の上司っぽい風貌が特徴の男性。
なんと監督も一人で参加とのこと。ならばここはわたしがサポートすることで、監督が試合に集中できるよう一肌脱ごうではないか——と考えたわたしは、「監督の試合のセコンドに入るから、時間や点数を伝えるね」と言うと、改めてチェックインカウンターへ戻り、Black Beltの腕輪を手に入れたのである。
監督の初戦まであと二時間ほど余裕があるので、腹ごしらえをしに外へ出たわたしは、試合時刻の15分前に会場へと戻った。
(とりあえず、余計なアドバイスはせずに残り時間と点数を積極的に伝えていこう・・)
セコンドのイメトレをしながら会場入り口へと到着したわたしは、大荷物を携えて地面に座る監督の姿を発見した。
(あぁ、試合に向けて精神集中をしているんだな)
そして、静かに監督の元へと近づいたわたしは思った——このヒトはなぜ、こんなにも滝汗をかいているんだろうか、と。
「え?もう終わったよ。そして勝ったよ」
肩で息をしながら、汗だくの監督はそう呟いた。なんと、試合時間が予定よりも早まっていたのだ。
(しまった・・悪いことをした。でも勝ってよかった、次こそちゃんとセコンドをしよう)
こうして、次の試合まで一時間半ほどあくため、どこかで時間つぶしが必要となったわたしは、万が一に備えて会場内にて待機することにした。そして、予定時刻の30分前に入り口へと向かったわたしは、まさかの光景を目の当たりにした——なぜ、汗だくかつボロボロになった監督が、地面に座っているんだ・・・。
そう、またしてもわたしは試合に間に合わなかったのだ。しかも今回は負けてしまったため、次のセコンドのチャンスすらをも失ってしまった。
(あぁ、なんという失態!これじゃ何の役にもたたなかったじゃないか・・)
自分のバカさ加減に愕然とし、肩を落として項垂れるわたしに向かって、監督はまさかの救いの手を差し伸べた——「無差別にもエントリーしてるから」。
こ、これは・・これこそがラストチャンスだ!!わざわざBlackBeltの腕輪を巻いて、一度もそのエリアに足を踏み入れることなくすごすごと帰るなど、とてもじゃないが許されるはずもない。今度こそ、最初で最後のセコンド業務を遂行するぞ——。
そう強く誓ったわたしは、試合まであと一時間はあるというのに、エリア内にある椅子に座って監督の出番を待つことにした。
(これならばもう、何があろうと絶対に試合を見逃すことはない!)
かく言う監督も、早々とチェックインを済ませてウエイティングエリアにやって来たため、ここにいれば間違いなく安心できる・・という状況を確保できたわたしは、知らない人たちの試合をぼーっと眺めながら、監督の出番を待ったのである。
——そして事件は起こった。
ふとウエイティングエリアを振り返ると、なぜかそこに監督の姿がない。一瞬、嫌な予感がよぎったわたしは、監督の試合が行われるマットへと移動した——そうだった、ウエイティングエリアと試合マットが、離れているんだった。
すると、まさかというかやはりというか、マットの上には監督が立っていた。しかもわたしが到着したその瞬間・・対戦相手の手が、天に向かって高く突き上げられたではないか。
(し、しまった!!またもややらかしてしまった・・・・)
わたしは、マットの中央でしょんぼりと立っている監督の背中を、ただただ見つめるしかなかった。彼の激戦を一度も見ることなく、今日という日を終えてしまったのだ。
あぁ、わたしは一体なにをしにここへ来たのだろうか。なんのためにこの腕輪を巻いたのだろうか——。
*
こうして、会場から出てきた監督と合流したわたしは、会うなり冒頭のセリフを言われたのである。
あれほど息巻いて「セコンドするからね!」と言っていた分際が、そのチャンスが3回もあったというのに、どれも見事に間に合わなかったのだから言い訳のしようもない。たしかに最後は惜しいところ(?)までいったが、結局は監督の勇姿を拝むことはできず、残り時間や点数を伝えることすらできなかったのだから——。
これが仕事ならば、間違いなく懲戒処分ものだろう。よって、「後でミーティング」程度で済まされて、ホッとするのであった。
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