近くて遠い「近所」

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(結局のところ、近いか遠いかはわたし次第なんだな・・)

友人にメッセージを返信しながら、思わず苦笑いをしてしまった。というのも、数日前に彼女から「ここって家から近い?}と尋ねられたのだ。

しかし、そこは自宅から1キロの距離にあり、電車もバスも通っていない。かつ、歩くにしてもぐるっと遠回りをしなければならず、直線距離よりもかなり遠く感じる場所である。

 

この炎天下にアスファルトの上を延々と歩くのなどゴメンだし、つい先日、10分タクシー待ちをしただけで東京の夏の恐ろしさを満喫したわけで、自宅から1キロの場所へ徒歩で向かうという選択肢はありえない。

こんなとき自転車があればベストである。わずか1キロの距離など、自転車ならば5分で着くが、歩けば15分はかかるだろう。しかも真夏にノコノコ歩くなど、いわずもがな自殺行為といえる。

おまけに、電車を使っても隣り駅から徒歩10分、バスは通っていないので意味がない。つまり、タクシーを使うしかたどり着けない場所なのだ。

 

これらの条件をトータルした結果、わたしは友人に「近くはない」と答えたのである。

 

同じ町内に住んでいるにもかかわらず、ちょっと番地が離れているだけで「遠い」などと、どの口が言うのか。だがこれは、同じ区内や町内だからこそ起きる現象なのだ。

もしもわたしが「恵比寿って遠い?」「品川って遠い?」と尋ねられたら、即答で「うん、近いよ!」と答えるからである。なぜなら、恵比寿も品川も他区であり、遠いのが当たり前だからだ。

 

そういえば、印象に残るやり取りがある。

とあるイベントに招待されて、わたしは横浜へ向かった。横浜といえばほぼ都内といっても過言ではない距離にあり、その存在感も東京とタメをはるほどである。

だからこそ横浜の住民は、住んでいる場所を聞かれると必ず「横浜です」と答える。それに比べて、厚木や相模原に住む人は「神奈川です」と、県名で答えるわけだ。

これは、名古屋や神戸、仙台なども同じだろう。無論、所在地である県名を蔑ろにしているわけではないが、自分の住む市を誇らしく思っているからこそ、先に口をついて出るのだろう。

 

そして会場に着くと関係者に挨拶をした、その際の会話である。

「いやぁ、本日は遠方からわざわざお越しくださり、ありがとうございます」

彼は誰に対してもこのセリフで挨拶をしているのだろう。だが、都内でも神奈川寄りの港区に住んでいるわたしからしたら、横浜など遠いどころかむしろ近いエリアである。電車でも30分ちょい、通勤エリアとしても有名なこの都市を、遠いなどと感じるはずもない。

 

もしも横浜まで徒歩で訪れたのならば、そのセリフも納得がいく。何時間歩けば港区から横浜までたどり着くのか分からないが、それはもう二度と行きたくないくらいに「遠いところ」という認識を持つからだ。

そしてわたしは、そのセリフを聞いたときに「きっとわたしが都内在住だと知らないんだ」と思い、つい、こう返してしまったのだ。

「とんでもない!わたし、都内に住んでいるので近いですよ!」

すると彼はムッとした表情で、

「いや、都内から横浜って近くはないじゃないですか」

と言い返したのだ。——しまった、プライドを傷つけてしまったか。

 

よくよく考えれば、機械的な社交辞令に対して本音で返す必要などなかった。適当に話を合わせて「いえいえ、ありがとうございます」などと流せばよかったのだ。

それなのにわたしは、相手との関係性における距離感を勘違いし、ついつい本音を告げてしまったのだ。しかも彼は、プライドの塊のような人物。そのため、東京から横浜までが遠いだなんて決して思ってはいないだろうが、己の発言を曲げることは許されないため、意地でも「遠い」ことを貫いたのだ。

 

相手との距離を近づけたくて発した言葉は、逆に、相手を遠ざけることとなってしまったのである。

 

・・そんな過去を思い出しつつ、友人からのメッセージを開いた。そこには、わたしの自宅から1キロの場所での任務遂行の依頼が書かれてあった。

数日前、「近くない」と答えたあの場所だが、内容が任務遂行とあれば返事は変わるもの。すぐさま「近所だから大丈夫」と送信した。

 

そう、自分にとって重要なことや楽しみなことならば「近い」と感じるし、面倒なことや興味のないことならば「遠い」となるわけだ。

まったく、人間とは身勝手な生き物である。

 

Illustrated by 希鳳

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