「あぁ、私は生きている!」と実感するのはいつだろうか?
私の場合、怪我や病気にかかった時だ。体が健康でなに不自由なく動けるときは、それが普通で当たり前だと思い込んでいる。
だがひとたび、足を骨折したり十二指腸潰瘍になったりすると、たちまち不自由な生活を送らなければならない。
そしてそのとき初めて、
「私は生きている」
と強く感じるのである。
*
私はいま、急性腰痛と戦っている。コイツにやられたのは3日前。たしかに歩行は困難だが、手足は自由に動く。よって、私から仕事を奪うことはできなかった。
(フン、バカめ。いまのご時世、歩けなくても仕事はできるんだよ!)
一週間もすれば再び自由を取り戻せるわけで、それまで多少の不便を強いられたとて、大した問題ではない。
さすがに2日目までは日常生活が不快だったが、3日目にはゆっくりと歩けるようになり、のろまな日常生活が戻った。フン、私の回復力を舐めるな。
さっそくカフェに向かおうと、横断歩道で信号待ちをする。片道二車線プラス一車線、その辺の道よりもやや広い。ましてや腰痛のせいで歩行スピードが著しく落ちている私は、ある程度必死に歩かなければ、青信号のうちに渡りきることができない可能性もある。
あいにく年寄りも見当たらない。年寄りがいれば、その後ろを追従することで多少の遅れは見逃される。だが見るからに健康体の私一人では、
「チンタラ歩いてんじゃねーよ!」
と、クラクションを鳴らされかねない。となると・・・杖だ!杖があればクラクションを鳴らされずに済むかもしれない。
だがシロガネーゼの住む港区白金には、杖はおろか棒やバットすら落ちていない。小道具で誤魔化そうにも、そう簡単にはいかないということか。
そこで私は、信号が青になった瞬間に誰よりも早く一歩を踏み出すことにした。ノロノロとはいえ、一般人が渡りきれないほどの速さで信号は設定されていないはず。出だしさえしくじらなければ、きっと向こう岸までたどり着くだろう。
そしていよいよ車の信号が赤になった。刻々とスタートダッシュを決める瞬間が近づく。
(・・・今だっ!!)
運動会の徒競走気分で、私はロケットスタートを決めた。他の通行人よりも圧倒的に速く、かつ、確実に左足を踏み出したのだ。
前のめりになりながらも、狭い歩幅でセコセコと歩く。二、三歩進んだ時点で、後からやってきた通行人どもに抜かれ始める。母親に手を引かれる子どもにも、六歩目あたりで追い越された。この時点で私がビリである。
(まずい。まだ半分も行ってない)
信号の残量はおよそ半分。こちら側の車線とあちら側の車線との間には、2メートルほどの安全地帯がある。最悪、そこで立ち止まって次の機会を待つしかない。
だが今は、そんな逃げ道を探っている場合ではない。とにかくこの青信号で渡りきるのだ。
青信号の残量メモリが着実に減っていく。左を見ると、信号が変わるのを今か今かと待ち構えるタクシーたちが、ズラリと並んで私を睨みつけている。
(クソッ、こんな時に限ってこっち側が三車線とは!)
不覚にも、ラストスパートをかけるべきこちら側の車線が、左折専用レーンを含む三車線でできている。前半よりも過酷な追い込みを強いられるということだ。
横断歩道には、もはや私以外の歩行者はいない。そして青信号のメモリはあと1つ。にもかかわらず、目の前にはまだ4本もの白線が立ちはだかる。
普段ならばなんてことはない4本の白線。信号が点滅しようが、ヒョイと弾めば簡単に向こう岸までたどり着いてしまうわけで。だが今はそれができない。やや前傾した姿勢で足を引きずるようにして、一歩ずつ着実に前へ進むことしかできない。
そして今、ようやく1本の白線を通過した。
(ダメだ、間に合わない!)
諦めたくはないが、残り3本の白線はあまりにも巨大であまりにも長すぎる。追い打ちをかけるように信号のメモリは消え、点滅を始めた。
こんな理不尽なことがあっていいのだろうか?脇目も振らず一心不乱に歩を進めた結果、一回の信号で横断歩道を渡りきれないなどということが、この世にあっていいものなのだろうか?
悔しさに歯を食いしばりながら、それでも速度を緩めることなく歩き続けた。
もしも横から、あのタクシーが追突してきたとしても、甘んじて受け入れるしかない。歩行者は止まれと言われているのに、車道を横断している私が悪いからだ。
ぶつかられる瞬間、とりあえず上に飛ぼう。車の下敷きになるよりも、フロントガラスにぶつかって弾き飛ばされるほうが、きっと怪我も少ないはず――。
1本、2本と白線を越える。車はまだ走り出さない。このノロマな私を憐れんでいるのか?無様な人間を蔑んだ目で見守っているのか?
怒りと絶望に顔を上げた私は、ふと交差する車道の信号を見た。
(右折の信号が出てる・・・)
そう。歩行者は赤だが、右折車のみ青信号だったのだ。だからあのタクシーたちは、私に突っ込んでこないのだ。
東京の信号機というのは、よく考えられているのである。
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