ヒトは誰しも「心地よい」とまではいかずとも、耐えられる程度の距離感というものを持っている。そのため、赤の他人にグイグイ詰め寄られると、嫌悪感のみならず恐怖すら感じるもの。
とはいえ、状況的に致し方無い場合はパーソナルスペースに侵入されようとも、ジッと我慢するしかない。その代表的な例として「満員電車の車内」が挙げられる。
電車の車内はプライベートな空間ではないので、不快であろうがなんだろうが目的地までは耐える必要があり、普段ならば決して近づくことのない不潔な輩と密着したり、あからさまに嫌な顔をするブス(いやいや、こちらこそ迷惑なんですけど・・と言いたくなるような)と至近距離で対面したり、お互い様だが苦労と我慢の耐久レースが繰り広げられるのが、「混雑した車内アルアル」といえる。
なかでも、「自分の空間を侵害してくる者をにらみつける」という、自らが置かれている状況を認識する能力に欠けている者の態度や行動を観察していると、腹が立つというよりむしろ面白いと思えるから不思議だ。
どうしたらそんなにも「ここは俺様/私の場所だ!」といわんばかりに自信満々でいられるのか、赤の他人ではあるが尋ねてみたい衝動に駆られるわけで、そんな好奇心を抑えきれなくなったわたしは、ついに実行に移してしまった。
ターゲットは50代(・・とかいって、じつは30代の可能性もあり得る)の女性。まるで小さな杉の木のようなフォルムの髪型で、いかにも神経質そうなチタンメガネをかけており、質素な顔立ちにピンク色の口紅が浮いていた。そして、ジャケットに細身のズボンを履いており、靴はぺったんこなヒールという、地味だが彼女を象徴するかのような装い。
そんなターゲットの背後に乗車したわたしだが、手に持っていたリュックが彼女の足に触れたらしく、眉間にしわをよせながら振り返りつつ、何度もリュックをにらみつけられた。「これだけ混んでたらしょうがないでしょ」と思いつつも、ギュウギュウ詰めではなかったことから、わたしは”とある実験”を敢行しよう・・と思い立ったのである。
どのような実験かというと、先ほどから電車の揺れに応じてフラフラとよろめく彼女に対して、わたしは強靭な御神木、もとい立派な脚を駆使して断固として立ち尽くすことで、いずれわたしにぶつかるであろう彼女の態度を観察する・・というものだ。
混雑した車内ゆえに、わたしとしては「仕方のないこと」だと思うわけだが、自らのパーソナルスペースを誇示するターゲットが、自らよろけることで他人にぶつかった場合、果たしてどのような態度をとるのか見ものである。小声で謝罪をするのか、はたまたムッとした表情でにらみつけるのか——。
実験開始後まもなく、電車の揺れに応じて彼女は一歩前へ踏み出した。実際のところ、一歩踏み出しても他の乗客にぶつからない程度のスペースを、彼女自身で確保していたわけだ。その他の人間は皆、隣の乗客と接する程度の距離感であるにもかかわらず、先に乗車していた彼女だけは自分の前に適度な空間を作っていたのである。
その後も、あっちへフラフラこっちへフラフラを繰り返すターゲット。だがついに、わたしが待ち望んでいた瞬間がやって来た——そう、後方へフラついた彼女は、いよいよわたしに接触したのである。
(キターーッ!! さぁ、どっちだ?! 申し訳なさそうに振り返るのか、はたまた不愉快そうに一瞥をくれるのか・・)
案の定というかなんというか、当然の如く後者の反応を示すターゲット。おまけに舌打ちまでする始末——オイオイ、まじで何様のつもりなんだ。
そこでわたしは、現在の心境をインタビューしてみた。
「今さ、自分がよろめいて勝手にぶつかってきたわけだけど、なんで舌打ちしたの?」
すると彼女は、一瞬ギョッとした表情を見せるも、すぐさま鋭い目つきに戻りこう答えた。
「混んでるんだから仕方ないでしょ」
ほぅ・・なかなかの正論を吐くじゃないか。その通りである。車内は混雑しているのだから、互いに接触してしまうのは不可避な現状である。だが、それを理解しているにもかかわらず、なぜ「舌打ち」をしたのかを尋ねたわけだが——。
再度、同じ質問をしようと思ったところで電車は駅に到着した。そしてドアが開くと同時に、ターゲットは逃げるようにして降りてしまった。
(真相は闇の中・・か)
いずれにせよ、言わなくてもいいことやしなくてもいい態度や行動は、やはり控えるべきだろう。舌打ちをされていい気分になる者はいないが、それを相手に伝えたところで謝罪や真の理由が返ってくるとは思えない。なぜなら、悪癖を指摘されて素直に認めることができる人間ならば、そもそも50代(推定)までそんな態度をとり続けるはずもないからだ。
・・などと思いつつも、「人の振り見て我が振り直せ」を、自分自身に強く言い聞かせるのであった。
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