一日一善。今日の午前中、わたしは良いことをしたし、なおかつ、機転が効いていた。
*
池袋から埼玉県の秩父へ向かう西武鉄道。人身事故のため特急が運休となり、ダイヤは乱れまくっている。
仕事で秩父へ向かわなければならないわたしは、騒然とする池袋駅でいつ発車するかわからない準急に乗り込んだ。
詰めれば座れそうな空間に尻を割り込ませ、強引に座席を確保。
特急ならば池袋を出ると所沢まで一飛びだが、準急は途中でぼちぼち停車する。終点の西武秩父へ到着するのにどれほどかかるのか、計算したくもない。
そんな長旅に備えて、何が何でも座らなければならないのだ。
家を出るとき小雨が降っていたが、昼過ぎには止む予報。秩父に着く頃には雨も上がっているだろう。
することもないのでぼーっと外を眺める。
しかし車内は混雑しており、外を眺める前に正面のサラリーマンと目が合う。
見られているサラリーマンもたまったもんじゃない。何度かわたしと目が合うと、不自然に左右を向いたり、髪の毛をいじったり、脚を組み替えたり、忙(せわ)しなく動いている。
そりゃそうだ。わたしはサラリーマンから目をそらすことなく、瞬きもせずじっと見ているのだから。
向こうからしたら、見ず知らずのヤバそうな女ににらまれているわけで、どうしたらいいのか分からないのだろう。
だが残念ながら、わたしはサラリーマンを見ているのではない。
正確には、サラリーマンの目を突き破って背後の景色を見ているのだ。いや、見ようとしているのだ。
実際、奴の目玉を通して背後など見えるわけがない。
見えないからこそ、さらに目を見開いて見続けることで、何かしらの景色が見えてくるかもしれない。
そんなわけで、サラリーマンはその餌食となっているのだ。
*
ひばりヶ丘を過ぎた頃、雨足が強まってきた。
わたしの隣りに座るおばあちゃんが、しきりに何かを気にしている。視線をやると彼女の手元が濡れていた。
コロナ対策による車内の換気として、電車の窓を開けて走行しているため、空気だけでなく雨までバッチリ入ってくる。
その雨粒がおばあちゃんの手や荷物を濡らしていたのだ。
そして後頭部を見上げると、おばあちゃんの背後の窓だけが他の窓より大きく開いている。
お年寄りに優しいわたしはユラリと立ち上がると、開いている窓の幅を狭めようと、窓枠の取っ手を押してみた。
ーーむっ、ビクともしない。
見た目は普通に上下する窓だが、どこか違うのだろうか。何度か強めに押し上げるも、強固なフレームは微動だにしない。
おばあちゃんには申し訳ないが、今しばらく濡れてもらおうーー。
諦めて座ろうとした時、周囲にいる乗客全員がわたしを見ていることに気がついた。
正面で挙動不審になっていた、あのサラリーマンまでもが。
これは、結果を出さずして着席することは許されない状況になりつつある。
もう一度、爪先立ちになりながら渾身の力で窓を押し上げる。プルプルしながらも、とにかく続ける。
だが、どんなに鬼の形相で挑もうが、この窓は1ミリも動かない。
ーーまさか、あのツマミを挟みながら押すのか?
窓枠の真ん中あたりに、クリップのようなツマミがある。挟みながら動かすと開閉できそうなアレだ。
しかしパッと見、そのツマミを挟もうが挟むまいが、それがストッパーになっているとは思えない。
わたしが迷っていると、下からおばあちゃんが囁いた。
「大丈夫よ、つぎ、降りるから」
そう言われて「あらそうですか」と座るくらいならば、最初からこんなことはしない。
なにがなんでも窓を閉めなければーー。
そこでわたしは考えた。
この窓を閉めるには、今の筋力では無理がある。なんせあばらが折れている。
しかしおばあちゃんが濡れていることを、黙って見過ごすわけにはいかない。
わたしの席と代わってもいいが、次の駅で降りるおばあちゃんをわざわざ移動させるのも忍びない。
その時ふと、視界に一本の棒が見えた。
日除けのブラインドの、引っ張るところだ。
わたしは指先でその棒を引っ張り出すと、窓の一番下まで降ろして留めた。これにより、窓上部から吹き込む雨は、ブラインドに当たって車内へは入らない。
「あ、賢い」
少し遠くで見ていた子供がつぶやいた。そのお父さんも「うん、賢い」と答えた。
わたしは得意気な表情でゆっくりと腰を下ろす。再び正面のサラリーマンと目が合うが、奴は怖気付いたのかすぐにうつむいた。
その時、わたしは思った。
「おめーがやれよ」
Illustrated by 希鳳
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