(この感じ・・どこかで覚えのあるような——あ、ショパンコンクールだ)
ファイナル進出者の番号が張り出された瞬間、そこに友人の番号がないことを確認したわたしは思った。この既視感というか過去と重なる感覚は、コンテストあるあるなんだ、と。
これはあくまで素人の独断と偏見による思い込みであり、他のコンテスタントを否定するものではないこと、加えて、協会や主催団体を糾弾するものではないことを、声を大にして伝えておきたい。
その上で、人間が人間を審査する競技の場合、「コンテストを主催する側の関係者は、出るべきではない」という意見を主張したい。なぜなら、観客側がしらけるからだ。
音楽の分野において、音のミスというのは最も分かりやすいマイナス評価の基準となるが、それを凌駕するほどの表現力や曲への想いを提示できた場合、そのコンテスタントは次のステージへと進むことができる。
もちろんそれは、審査員のみならず聴衆側も圧倒されるほどの音楽性なので、ノーミスで小さくまとめた者よりも評価が高いのは当然といえる。つまり、そのくらいの歴然とした実力差があれば、誰もが認めざるを得ない結果となるわけだ。
だが、審査員の生徒であったり親しい関係者であったりすると、それを理由に”暗黙の忖度”が行われた結果、同程度の評価となる者がいた際の優劣に影響が出るのは当然のこと。
これもまた、人間由来の感覚であり仕方のないことなのだが、とはいえコンテストの判断基準としてそれらの項目が明示されていない以上、本来ならばあってはならないことではなかろうか。
少なくとも今回、友人のパフォーマンスは完璧に近かった。ステージ上のポーズやウォーキングのみならず、コスチュームの選択やメイク・ヘアメイクは新鮮だったし、顔の表情や姿勢・脚や指先の表現も充実しており、今までより一皮むけた印象を受けた。
無論、これは「友人」という関係性による色眼鏡をとおした感想なので、当然ながらひいき目と言われても仕方がないし、そのとおりかもしれない。だが、全員が同じポーズを披露する場面——要するに、決してミスをしてはならない局面で明らかなミスをしたにもかかわらず、ファイナルへ進出したコンテスタントと比較して、そこまで見劣りしているとは思えなかった。
そんなこともあり、都市伝説好きな素人は、裏事情というか政治的側面を勘ぐってしまうわけで、たとえば大会関係者が出場していたりすると、どうしても”斜に構えた見方”をしてしまうのである。
もちろん、主催者側の関係者ということはそれ相応の実力があり、団体への貢献度が高いのは言うまでもない。ということは、この時点ですでにポイントが加点されているのだ。念のため繰り返すが、実力ありきの前提であるのは間違いない。だが、一般のコンテスタントよりも実力が高く、彼ら・彼女らに指導をする立場にあるのであれば、コンテストに参加するべきではないだろう。なぜなら、平等性に欠けるからだ。
それでも大会に出場したいのであれば、そういった実力者のみが参加できる部門をつくればいい。一般のコンテスタントでは見せることのできない、ハイレベルな戦いを披露すれば、見ている側も必然的に目が釘付けになるし、コンテストとしても高い評価を得ることができる。
それよりなにより、参加する一般人たるコンテスタントのやる気が増すのは間違いない。関係者が参加していれば、その時点で「あの人がファイナルに残るのは間違いない」という、暗黙の了解的な共通認識が持たれるわけで、それ以上の感情はないにせよモチベーション低下は必至。
そして健気なことに、一般人たるコンテスタントたちは誰一人として、その事実を口にはしないのだ。ただただ「私の実力が足りなかっただけ」「他の人たちよりも劣っていただけ」と、自らの実力不足を嘆き反省するのであった。
だからこそ、外野かつ素人のわたしは思うのだ。誰から見ても公平公正な評価だといえるように、関係者は参加するべきではない・・と。
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なにはともあれ、友人のパフォーマンスは完璧だった。審査員のお眼鏡にはかなわなかったが、わたしの目には最高のステージに映ったし、それだけ価値のある数分間だったのは間違いない。
よくやった、お疲れさま。




















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