マット・ブラック URABE/著

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(・・・・・ん?)

もはや「嫌な感じ」はしなかった。ややもすると、異種族間での友情が芽生えたかもしれない、そんな不思議な感情すら覚えたわけで。

 

 

わたしは、物陰から生え出た二本の針をじっと見つめていた。ピンっと水平に伸びたかと思えば、右側だけが直角に曲がったり二本とも同じ角度で左右に開いたりと、自由自在に動かせる黒い針である。

そしてしばらくすると、敵がいないと判断したのだろうか。二本の針は静かに本体を現わした——こ、これは・・・・ん?

 

この時期に都会の喧騒を駆け巡る黒い物体といえば、ゴキブリだろう。だが、わたしの目の前にいるこいつは、ゴキブリというよりコオロギか何かに似ている。

そんなはずがないことは十分承知しているが、わたしが認識している"ゴキブリ"とはちょっと様子が異なるのである。たとえば触覚の長さ——ゴキブリって、触覚こんなに長かったっけ?まるでカミキリムシじゃないか。

たとえるならば「ゴマダラカミキリ」の触覚に似ている。やたら滅多に出没するわけではないが、黒いボディに白い斑点が目立つちょっとオシャレな害虫、ゴマダラカミキリ。あいつの触覚のように、長さと存在感があるのだ。

 

そしてもう一つ、ゴキブリといえば全身をぬらぬらと黒光りさせているのが特徴だが、こいつはそうではない。どちらかというと、艶消し加工のマットなブラックに身を包んでおり、ゴキブリ特有の不気味さが感じられないのである。

(やはり、これはゴキブリではなくコオロギか何かの仲間なのでは・・)

やや心を許し始めたわたしに対して、マット・ブラック(そう名付けた)もホッとした様子を見せた。相変わらず、長い触覚をダウジングでもするかのように慎重に動かしながら、壁に沿って静かに歩を進めている。さらに面白いことに、壁側の触覚——すなわち右の触覚は一直線だが、左の触覚は常にわたしを指しているのだ。

(なるほど、わたしを警戒しているのか)

マット・ブラックは賢い個体だと思われる。無駄な動きを一切せずに、慌てることも怯えることもなく、ただ静かに壁際を進んでいるからだ。もしもわたしが行く手を阻んだとしても、マット・ブラックは狼狽することなく冷静に方向転換するだろう。——そんな想像ができるほどの、豊かな知性が備わっているかのような不思議なオーラを放っているのである。

 

それにしても、マット・ブラックの正体はなんなんだろう。ゴキブリのような不快でおぞましい雰囲気は感じられない。やはり、カミキリムシの仲間なのだろうか——。

そんなことを考えていたところ、わたしの背後から小さな悲鳴が聞こえた。そして彼女はハッキリと、信じたくはない"四文字の単語"を呟いたのだ。——ゴ・キ・ブ・リ——。

 

その瞬間、わたしとマット・ブラックの間に見えない電流が走った。もう少しで手を取り合うほどの距離まで近づくことができたのに、われわれは非情にも引き裂かれたのである。

後で知ったことだが、マット・ブラックはどうやら"ヤマトゴキブリ"という種類に属するらしい。日本固有のゴキブリで、東日本の森林をを中心に生息しているヤマトゴキブリは、黒褐色から黒色のボディで艶がないことが特徴なのだそう。——まさにその通りだった。

 

そして、ナーバスになったマット・ブラックは急激に方向転換すると、取り乱したかのようにあたふたと奔走し始めたのだ。さっきまでの眉目秀麗な姿は影を潜め、あたかもゴキブリのように——いや、実際にゴキブリだったのだからこれでいいのだが——、醜態を晒したのである。

 

 

あと少しで、何も知らないわれわれはトモダチになれたかもしれない。もしもマット・ブラックがゴキブリじゃなければ、もしもわたしがニンゲンじゃなければ、われわれは親友になれたのかもしれない・・・。

そんな妄想は一瞬で吹き飛び、マット・ブラックは捕獲されてどこかへ連れ去られた。もげた左足を一本残して——。

(了)

Illustrated by 希鳳

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