わたしは今、立っている。とはいえ、ただ立っているわけではない。立ちながら、蕎麦を啜(すす)っているのである。正確には、わたしは麺類を啜ることができないため、浮き餌に群がる鯉のようにパクパクと口を開閉させているだけだが。
そもそも、「麺を啜る」という食べ方は合理的かもしれないが、衛生的ではない。熱々のラーメンや蕎麦のリアルな臨場感を味わうには、なるべく茹でたてを食べるに越したことはないのだが、口の中や舌を火傷しないためにも、唇をすぼめて勢いよく吸い込むことで、麺を空気に叩きつけて冷ますのだ。
ところがその代償として、汁から引き揚げられた麺の束の尻が跳ねて、ラーメンや蕎麦のスープが顔や衣服そしてテーブルに飛び散る現象が起きる。ちなみに、スイカにかぶりつくことで目に見えない果汁が飛散することを、わたしは知っている。スイカであれほどまで広範囲を汚すとなれば、乱暴に吸い上げた麺の束から飛び散る汁は、当然ながらもっと派手に汚すに決まっているのだ。
だからこそ猫舌のわたしは、無理にカッコつけて啜ることはせず、鯉や金魚のようにパクパクと機械的に咀嚼するのである。こうすれば、熱々の臨場感は味わえないにせよ衣服を汚すことはないわけで。
そんなことを考えながら、春菊の天ぷらにかじりつく。名代富士そばといえば、春菊天か紅生姜天そばの二者択一。少なくともわたしは、これ以外を注文したことはない。
かといって春菊や紅生姜が好きなわけではない。むしろ、そんなに好きではない。それでも春菊や紅生姜などというマニアックな天ぷらがあれば、試さずにはいられないのが好奇心というもの。おまけに「美味い!」と思ったわけでもないのに、それでもなんとなくまた食べたい気持ちになるから不思議である。
(・・うん、春菊の青臭い味がする)
それにしても、なんだこの幽霊のようなビブラートは——。前々から疑問に思っていたのだが、演歌というのはなぜこうも極端なビブラートを多用するのだろうか。しかも、演歌を好んで聞く世代というのは高齢の域に達しているわけで、立ち食いそば屋を訪れるとは思えない。にもかかわらず、さっきからずっと曲名も分からない演歌が流れており、なんとも微妙な気分になる。
テンションが上がるわけでもなく、むしろ水平よりも下降気味のわたしは、何も考えずただひたすら目の前の春菊天ぷらを噛みしめた。
そしてあっという間に汁まで完食、いや、完飲したときに、立ち食いそば屋で演歌を流す理由が分かった。
(きっと、一秒でも早く食べ終わらせるためだ)
あの高低差のあるビブラートは、食欲をそそるものではない。むしろ脳内には空虚が広がり、ただひたすら咀嚼を繰り返すしかなくなる。
おまけに立って食べているわけで、わざわざ長居をする理由はない。そうなると、とにかく早く食べ終えて店を出ることが使命となる。そしてまた新たな客が入って来て、蕎麦を食べて出ていく——。
そんな、顧客の回転率を上げるような流れを、嫌味なく自然に作り上げているのが「立食」であり「演歌」なのだ。
——なるほど、素晴らしい効果である。
こうしてわたしは、一心不乱に春菊天そばを掻っ込んで、頼まれたわけでもないのに大急ぎで店を後にした。
・・おっと。念のため補足しておくが、あの「演歌」のチョイスは店長の趣味と思われる。なぜなら帰り際、満足げに聞きほれる店長らしき人物の姿があったからだ。
いずれにせよ、「最短で目的を達成させるための素晴らしいチョイス」であることは間違いない。
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