トラウマを抱えた山手線のシート URABE/著

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僕は山手線のシート。しかもドアに隣接するシートだから仕切り板がついていて、そこへもたれかかることができるんだ。

僕たち電車の座席は、やはり端っこが圧倒的な人気者となる。さらに、僕のように仕切り版を従えるシートは、単なる金属パイプの手すりシートよりも重宝がられるんだ。

なぜなら金属パイプの場合、車内が混雑してくると手すりの前に立っているお客さんの肘が、座っているヒトの顔あたりにきてしまうんだ。あとは、手すりにもたれかかるように立っていると、ちょうどお尻がその辺りにくるため、座っているヒトにしてみるとあまり気持ちのいい状況ではないんだろう。

こういう「ちょっとした不快感」がトラブルにつながったりするので、僕のように乗客を完全に仕切ることのできるプレートが設置された車両が、もっぱら増えているらしい。

 

ちなみに、こう見えても僕はわりと新しいシートなんだ。でも、それなりに波乱万丈な人生を歩んできたと思う。毎日毎日、朝から晩まで何十人いや何百人ものお尻を支えるわけだけど、ニンゲンていうのはホント面白いね。

なんてったって、コロナの影響でマスクを着ける習慣ができてからは、おならをするヒトがめちゃくちゃ増えたんだ。キレイな格好をしたご婦人も、偉そうな雰囲気のサラリーマンも、みんな静かに何食わぬ顔で、僕の上で平然と放屁するんだよ。

しかも周囲はみんなマスクにイヤフォンだから、放屁に誰も気づかない。それを逆手にこれ見よがしにプスーッっとかます姿は、もはや滑稽というしかないんだよね。

 

硫化水素や酪酸、アンモニア、スカトールなどの「悪臭」が染みこんだ僕だけど、おならは無色だしシートに鼻を近づけて嗅ぎまわる変態もいないから、みんな気付かずに僕の上に座っては放屁を繰り返すんだ。

まぁこんなかわいい話は置いておいて、僕はいま、非常に複雑な気持ちでこの女性のお尻を支えている。事の発端は、昨日の夜だった——。

 

金曜日の夜は酔っ払いが多い。だらしない酩酊サラリーマンの姿も、コロナ禍でかなり減ったけど、最近またよく見かけるようになった。行儀の悪い酔っ払いは靴も脱がずにシートへ横になるなど、周りの迷惑を考えることなく身勝手なことをするから、僕たちも嫌な気持ちになる。ああいう行為はやめてもらいたいね。

そして事件は起きた。僕の真上にドサッと腰を下ろした酩酊オジサンは、仕切り版に頭を預けるとグーグー寝始めた。他の乗客に迷惑をかけない分、勝手に爆睡するのは構わないと思っていたところ、なんと突然、嘔吐したんだ!僕はビックリして狼狽えたよ。ただ寝てたんじゃないの?オジサン、頼むよぉ・・・。

酔っ払いの吐瀉物が、仕切り板を伝って僕に染み込んでくる。うわぁ、気持ち悪い!こんな悍(おぞ)ましい状況、我慢できないよぉ!

 

その酔っ払いは御徒町で降りていった。つまり、彼は下車駅を認識していたわけで、いったいどれほど酩酊していたのかは分からない。あぁ、人間っていうのは恐ろしい生き物だ。

吐瀉物まみれの僕は、車庫へ戻るとすぐさま清掃作業が行われた。クリーナーを使って何度も汚物痕を拭くと、最後に消毒と消臭スプレーを吹きつけてその日は眠りに就いた。

 

——翌日。昨夜の悪夢は嘘のように、僕はキレイに乾いていた。シートの模様のせいもあり、汚物のシミもまったく見当たらない。よかった、今日も堂々とヒトを運べる!

 

そう思いながら、僕は大勢のお客さんのお尻を支えてきた。だけどどうしても、トラウマのように昨夜の光景が蘇ってしまうんだ。

この女性には申し訳ないけれど、あなたが顔をくっ付けているそこは、あの酔っ払いが嘔吐した場所なんだよ。たしかに清掃はしたし、消臭スプレーのおかげで悪臭も消えている。だけど、事実としてそこには・・・。

 

いや、やめよう。僕がなにをどう思おうが、彼女に伝わることはないんだ。しかもそんな事実を伝えたところで、彼女が嫌な思いをするだけじゃないか。ヒトには知る必要のない情報というのもあるはずだ。なんでもかんでも知るのがいいことじゃない。

・・何度もそう自分に言い聞かせて、気持ちを落ち着かせようとする僕だが、それでもあの悪夢が、生々しく襲いかかってくるんだ。あぁ、こんな嫌な思いがいつまで続くんだろうか。一刻も早く、僕の穏やかな日常を返してくれ——。

 

Illustrated by 希鳳

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