学生時代、授業をさぼった経験というのは誰しもがあるだろう。今どきの学生がどのように授業をサボるのか知らないが、コロナの影響で授業がオンラインになるなど、対面環境が少なくなってきているのは事実。
つまり授業が苦痛ではなく、むしろ参加したくてしょうがないといった学生が、いないとは限らない。普段はリアルに顔を合わせることのない同級生たちと、会話をしないにせよ同じ空間で過ごすことは、それなりに価値のある時間なのかもしれない。
いや、それならば授業など出ずに、同級生とどこかへ遊びに行く方が楽しいはず。ということは今も昔も授業はサボるために存在するということか。
自分の過去を振り返ると、私は授業をサボるほうではなかった。理由は二つある。
まず一つは、サボったことで怒られるのは時間の無駄だからだ。無断でサボれば後ほど追及されるし、事前にサボることを告げたとて許可されるはずもないし、どのみち怒られるのならばサボらないほうがいい。
そしてもう一つの理由は、授業に出ていてもほとんど寝ているため、わざわざサボる必要がないからだ。部活によって酷使された体を休めるのに、授業はうってつけの休息時間となる。そして静かに姿勢よく目を閉じていれば、空気が読める教師は見逃してくれるもの。
逆に何らかの理由があってサボる場合、それはサボりではなく正当な欠席となる。当然ながら、理由の如何を問わず、生徒側に正当な理由があれば正当な欠席となる。
たとえば体調不良や身内の不幸など、身体や環境に急な変化があれば欠席するのは当然。さらに「気分が乗らない」「あまりに天気がいいので外で過ごしたい」といった、ファジーな理由も正当といえる。なぜなら、本人は本気でそう思っているからだ。
そもそも、学校教育の目的が学力の向上ならば、真面目に授業に出て低い点数を取るよりも、授業をサボって高得点を取る生徒のほうが目的を達成していることになる。
内申点という形骸化した制度もあるが、教師の主観による点数設定などまったく当てにならないわけで、であれば単純にテストの点数のみで判断したほうが公平といえる。
言うまでもないが、人間の能力は学力だけで左右されるものではない。むしろそれ以外で能力を発揮することのほうが多い。
ということはテストの点数が低かったとしても、スポーツや音楽、美術、手先の器用さ、料理の上手さ、タイピングの速さ、物事の処理能力などといった、学校教育では計測できない部分の能力向上に時間を割いたほうが、本人のやる気や満足度以上に日本の国益にもつながる。
そのためならば、授業という無駄な拘束時間に縛られて、能力向上のための貴重な瞬間をつぶすような真似はしないでもらいたい。
つまり、どんどんサボってもらいたいと思うのである。
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還暦を過ぎているが、とてもファンキーな友人がいる。
「還暦」というとずいぶん年寄りのイメージに聞こえるが、今どきの六十歳はお世辞抜きに若い。見た目だけでなく思考や行動も、彼ら・彼女らの子ども世代と対等にやり合えるほど、最先端かつ弾力的である。
そんな還暦越えの友人の、学生時代のサボりエピソードがツボにはまった。
「先生、トイレ行ってきまぁす」
都内の私立高校に通う友人は、授業が始まるとすぐにトイレへ行くための許可をもらう。その発言を皮切りに、仲良したちがゾロゾロろ廊下へ出ると、皆でトイレの打ち合わせが始まる。
「今日はどこのトイレに行く?帝国?オークラ?」
いやいやいや。一体どこのトイレに行くつもりだ?普通「トイレ」といえば、校舎内にあるあのトイレだろう?すると彼女は、
「だって、汚いトイレ使いたくないんだもん」
と、顔色一つ変えずに平然と答えた。そう、当時のうら若き乙女たちは、掃除の行き届いたキレイなトイレを求めて、高級ホテルへと向かったのである。
夕方、学校へ戻った彼女らに担任は、
「ずいぶん長いトイレだったな」
と嫌味を言うが、それに対していけしゃあしゃあと
「うん、オークラのトイレだから時間かかるよね」
と言ってのける乙女たち。これには担任も、開いた口が塞がらなかったことだろう。
同じような手口で、「水飲んでくる」と言ってパチンコ屋の水を飲みに行くなど、完全に不良少女であった友人。だがこの「退席宣言」は嘘をついていないだけでなく、ウィットに富んだフレーズであり、言われた側は怒る気力をなくすだろう。
「うーん、なるほど」
教師を唸らせることができたら、そのサボりは正当な理由である。そんな人間味あふれるやり取りが許される場所こそが、学校というところであってほしいものだ。
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