ゴマ塩の呪い

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(あぁ、こんな小さな存在にまたもや「してやられた」わけか)

部屋で一人「ギャッ」と叫んで後ろへすっ飛びながら、脳内ではこんなことを考えていた。そうだ、これはわたしにとって二回目の出来事なのだ——。

 

 

あれは今から15年前のこと。知人の葬儀から帰宅したわたしは、玄関の前でとあるマナーを調べていた。それは「清めの塩」の撒き方についてだった。

そもそも、故人を「穢れ」とする考え自体がどうかしていると思うし、きちんと成仏させて埋葬するのだから、故人の霊がついてくることもないはず。だが神道の考えでは、死人は穢れという概念らしく、いまだに塩を撒く風習があるわけだ。

 

そして困ったのはこのわたしである。なぜなら、我が家には調理器具はおろか調味料など皆無。つまり塩というものが存在しないのだ。元来、根は真面目であるわたしは、神道でも仏教でもキリスト教でもないが、それでも一応マナーとして清めの塩を振りかけようと考えた。

さっそく近所のコンビニへ行くと、何種類もの塩が並べられていた。ガチ塩、岩塩、ハーブソルトなど様々な塩の中で、わたしはゴマ塩へと手を伸ばした。なぜなら、今後わたしが使用するであろう可能性が高いのが、ゴマ塩だからだ。

岩塩だのハーブソルトだのは、正直、使い道がわからない。だがゴマ塩は、白米に振りかけるだけでご馳走になるわけで、料理と縁遠いわたしでも使用可能である。

 

そしてわたしは、ゴマ塩の瓶を握りしめて再び帰宅した。

 

玄関で自らにゴマ塩を振りかけ、床に落ちたゴマ塩を踏みつけてから室内へはいる。——これでバッチリだ。故人の霊を「穢れ」などとは思っていないが、長い物には巻かれろというし、一般的とされる習慣は二つ返事でこなしておくべきだからだ。

こうしてわたしは、穏やかな気持ちでソファに沈むといつの間にか眠りについた。

 

——翌日。

一人暮らしのわたしは、後にも先にもあれほどの大音量で叫ぶことはないだろう、というほどの大声で「ギャァァァ!!!」っと叫んでのけぞった。なぜなら、玄関にとんでもない数の虫が湧いていたからだ。

昨日までは普通の玄関だった我が家が、突如、黒い虫がうじゃうじゃ群がる地獄絵図に豹変するとは、いったい何が起きたというのか。それよりなにより、この虫どもをどうやって取り除けばいいのだ。便利屋あるいは特殊清掃員でも呼ぶべきか——。

 

わなわなと震えながら、無数の黒い虫を睨みつけるわたし。そして数分が経過した時点で、とある事実に気が付いた。

(・・む、虫が微動だにしない)

不思議に思ったわたしは、おそるおそる虫の近くへ寄ってみた。そしてすべてを理解した。そう、無数の黒い虫は、昨夜ばら撒いたゴマ塩の残骸だったのだ。よって、動くはずもなく、特殊清掃員を依頼する必要もなかったのである。

 

 

そして今、ギャッ!と叫んだ瞬間にあの時の様子が走馬灯のように蘇った。そう、フローリングで蠢(うごめ)く黒い虫、いや、正確には蠢いてはおらずただ単に散らばっている黒い粒々は、虫ではなくゴマ塩だったのだ。

近所のスーパーでタイムセールになっていた白米(大盛り)に、「ごま屋が作ったごま塩(有機黒いりごま100%使用)」を振りかけて、今日の昼に食べたのだ。そしてそのまま外出してしまったわたしは、フローリングに散らばる無数の黒い粒の正体が、まさかゴマ塩であるとは思わなかったのだ。

 

わたしはなぜ、このような数ミリの黒い粒に踊らされているのだろうか。とはいえ、もしもこれが本当に虫の類であれば事件である。一匹ならばまだしも、数十匹の黒い小さな虫がフローリングに蔓延っていたら、それは原因を考えるよりもさきに発狂するだろう。

とどのつまりは、人間というのはこんな小さな存在にも恐れおののくほど、弱くて脆い生物なのだ。もしもこのゴマ塩たちが一斉に動き出したら、わたしは正気を保つことができないわけで、この小さな虫数十匹に打ち勝つこともできない程度の勇敢さしか持ち合わせていないとは、なんと恥ずかしいことだろうか——。

 

そんな不毛な自問自答を繰り返しつつ、わたしはゴマ塩を撤去するべくコロコロを転がすのであった。

 

サムネイル/「ごま屋が作ったごま塩」カタギ食品株式会社

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