メガネを恨む

 

ヒトが普段、どれだけ視力に頼って生きているのかを思い知らされた瞬間——それは、1リットルのコーヒーで満たされたタンブラーが傾いたかと思うと、カウンターテーブルにぶつかりフタが外れ、決壊したダムのごとく黒い液体が流れ出たあげく、その先に立っていた女性の足元へ飛び散る・・という、わずか一秒の「最悪の事件」から再認識させられたのであった。

 

 

この日、近所のスタバへ出掛けたわたしはメガネをかけていた。普段ならばコンタクトだが、作業途中にちょっと家を出る程度だったため、マイナス13.5という超ド級の強度近視のメガネにて、タンブラーを片手に馴染みのスタバへと向かったのである。

そして、事件はコーヒーを受け取った直後に起きた。

 

わたしのタンブラーは取っ手の付いたマグタイプで、スチール製の頑丈な作りでできている。しかも、およそ1リットルの液体を飲み込めるほどの大容量であるため、毎日持ち歩くうちにタンブラーの重さで指を痛めてしまった

実際には、コーヒーを飲むときに指を取っ手にかけるため、持ち歩くよりもこちらの動作で痛めた可能性が高いが、とりあえず持ち歩きの際の手指の負担を減らすべく「タンブラーをぶら下げる網」を購入したわたしは、今日も網をぶらぶらさせながらスタバを訪れたわけだ。

 

そして、注文の品——ベンティサイズのドリップがなみなみと注がれたタンブラーを受け取ると、「網」へ詰め込んでさっさと退散しようとしたのだが、今日に限ってマグ(取っ手)が引っかかって収まりが悪い。

その原因は、わたしが店員とおしゃべりをしながら「網」と格闘していたためだ。度の強いメガネのレンズは端っこに歪みが出るため、直視する分には問題ないが目玉を動かして周囲を見ようとすると、レンズの歪みにより全体的にぐにゃっとした像が写る。

そのため、正面に立つ店員の顔を見ながら会話をしていたわたしは、手元のタンブラーの状況を正確に把握していなかったのだ。

 

そして、不安定な状態で網へと収まるタンブラーを持ち上げたところ、「なんか持ちにくいな」と感じたため、改めて座りを良くするべく網と格闘しはじめた矢先に、タンブラーが滑って倒れたのである。

走馬灯のようにゆっくりと、かつ、着実に最悪の結末へと向かう我がタンブラー。あぁ、(時を止められる)DIOか空条承太郎以外には、この状況を打破することはできない——そんなことを考えながら、どうすることもできない現実とこれから起こる地獄に覚悟を決めるわたし。

 

そして1秒後、自分の中で制止していた時が動き出した。

タンブラーが倒れ、その衝撃でフタが開き、そこから大量の黒い液体が流れ出て、近くに立っていた女性客の足元へと飛び散る——目の前で着々と起こる最悪の現実を、ただただ見守ることしかできないわたしは己の愚かさを呪った。

なぜメガネで出掛けたのだ。なぜ注意力散漫な状態で液体を扱ったのだ。なぜ、こうなることを予測できなかったのだ・・・。

 

なによりも恐ろしいのは、コーヒーが飛び散った先にいる女性のスニーカーの一部が「スウェード素材」だったことだ。

色こそ(奇遇にも)茶色ではあるが、スウェード部分に染みこんだコーヒーはなかなか落ちない。そして、スウェード素材といえばビルケンシュトックだが、ビルケンのサンダルを10足ほど所持しているわたしは、過去に何度もシミを残してしまった経験があり、この手のトラブルには百戦錬磨の実績がある。

(とにかく、いち早くポンポンしなければ!!)

わたしはすぐさま彼女の足元へ跪(ひざまず)くと、ウェットティッシュを使ってシミをポンポンと叩き始めた——最悪の場合、靴専科でシミ抜きをしてもらわなければならないが、このくらいの量であればポンポンでどうにかなるかもしれない——この先に待ち受ける”更なる最悪”まで想定しながら、祈るようにひたすらポンポンするのであった。

 

ちなみに、この事件において不幸中の幸いだったのは、彼女のスニーカーが茶色だったことと履いていたズボンが黒色だったこと、そして何より彼女自身の性格がおおらかでさっぱりとしていたことだ。

「大丈夫ですよ、ちょうど茶色で目立たないし」

気にする素振りを見せずに笑いながらそう答える彼女は、おそらく育ちのいいお嬢さんなのだろう。もしかすると、あれは大切にしていたスニーカーだったかもしれないし、もしかするとお気に入りのズボンだったのかもしれない。それでも、加害者であるわたしを気遣い「大したことない」と笑顔で許容する姿は、まさに女神さながらだった。

 

とりあえず応急処置を終えたわたしは彼女と連絡先を交換し、その後、お詫びも兼ねてスタバのドリンクチケットを送らせてもらった。

互いに住まいが近所であるため、いずれまた会う可能性が高い。今度は笑顔で挨拶できるといいな——。

 

 

そんなわけで、今後は極力メガネで出歩かないことと、それでもメガネの場合は一点集中で行動することを、コーヒーをぶっかけてしまった彼女に誓うのであった。

 

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