ここ最近、食べ物・・とくに手作り料理をもらう機会に恵まれているわたしは、心の底から「幸せ者だ」と感じている。なんせ、世が世なら食べ物のあるなしで生死が決まるわけで、目の前に札束を積まれるよりも、おむすび一個持っている者のほうが強いのだから。
そんな本能的な部分の影響なのか、現代においても”食べ物をもらうこと”に、無上の喜びを覚えるわたしなのである。
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とある友人親子から差し入れられた「弁当」と「おむすび」は、なんというか食べただけで育ちの良さを感じる味だった。
食材が高級とかそういうわけではなく、卵焼きやハンバーグの繊細な作りや調理方法の丁寧さが、目で見て感じられ口の中で確信に変わる・・という風に、五感で裏打ちされた信ぴょう性があるのだ。
弁当に加えて、友人の母がこしらえてくれたおむすびは、とてもじゃないが素人が握るレベルではない完成度だった。
そもそも自身で精米するところからスタートしており、米自体の味もさることながら、ふんわりとまとめられたおむすびを包む海苔の風味も、これまた格別なのである。もちろん、海苔に関してはそれなりのものを使っているのだろうが、とにかくこの”握り過ぎていない米粒の集団”を味わってしまうと、おにぎりではなく”おむすび”と命名したくなるほど、不思議なふんわり感に衝撃を受けたのである。
そんな「素人レベルではないおむすび」の次は、なんと「プロが握るおむすび」を与えられたわたし。
そもそも料理など一切しないド素人のわたしが、偉そうに「素人とは思えないレベル」などとほざくことのできる理由が、じつはここにあった——そう、わたしはプロのおむすびを知っているからこそ、友人母のおむすびがそれと同等であると判断したのである。
こちらに関しては、もはや言語化することが野暮であるうえに己の語彙力の乏しさも相まって、その美味さや美しさそして完璧である様子を表現することができない。
いかんせん、おむすびを構成する全ての要素——水にはじまり米や塩、海苔、鮭、梅干しなどどれをとっても作り手の目が光る逸品でできており、これ以上のおむすびというものを食べたことがないからだ。
たかがおむすび、されどおおむすび——この表現がしっくりくるほど、至極の一品であるのは間違いない。そんな素晴らしいおむすびを、20個ほど差し入れてもらったのだから贅沢な話である。
そして極めつけは、「手作り栗ご飯」の登場だ。身内の庭でとれた栗による、天然素材の栗ご飯——本当は、わたしの大好物である「栗おこわ」を作る予定だったが、もち米が用意できなかったため、取り急ぎ栗ご飯を届けてくれたのだそう。
さらに、「ご飯だけでは味気ないから」とおかずまで付けてくれたのだが、それがどう見ても洒落た惣菜店・・いや、人気のデリカテッセンで売られているような、見た目も味も抜群の作りだったのだ。
(これが主婦の料理・・?!)
いまどきの主婦というのは、このくらいのクオリティでなければ子供の弁当すら作れないというのか——よくよく見ると、栗ご飯に入っている「栗」の表面がなだらかに削られており、食べやすいサイズに切り揃えられている。
要するにこれは、レシピを見て真似するだけでは到底たどり着けない境地・・つまり、本人の性格が出ているのだ。とどのつまりは、料理というのはその人の性格や性質が如実に反映されるものであり、だからこそわたしは手作り料理を好んで食べるのである。
料理が上手い(美味い)とか下手というような短絡的な話ではなく、その人自身に触れることのできる一つのきっかけが、手料理・・すなわち食べ物なのだ。
もちろん、既製品であっても食べ物をもらえば嬉しい。なぜなら、その人が「美味しいから食べてみて」といって差し出す商品が、好みの違いはあれど不味いはずなどないわけで——。
(あぁ、そういえばあのおむすびも良かったな・・)
こちらもつい先日、後輩が作ってくれたおむすびの話だが、割と大きな本体の内部に卵焼きが潜んでいた。しかもその卵焼きには細かく刻んだネギが混ぜてあり、卵焼きだけでも相当美味いのに、それを贅沢にも白米で包んであったのだ。
しかも、おむすびの表面にはしそわかめがふんだんに付着しているのだが、これがとにかく美味かった。後輩に尋ねたところ、山口県萩市にある「井上商店」という老舗が発売しているふりかけ・・とのことで、地元民なら誰もが知っている有名な商品なのだそう。
風味も当然ながら歯ごたえと磯の香が絶妙で、「さすがは地元民が好むだけある」と、思わず唸ってしまうほどの逸品だった。
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というわけで、「たかがおむすび、たかが弁当」ではあるが、一つ一つに作り手の個性や性格が反映されているだけでなく、その人の好みやこだわりの食材・調味料を堪能できるというのも、手料理の素晴らしい側面といえる。
そして、そんな貴重な食べ物を一人黙々と食すわたしは、「つくづく幸せ者である」と感謝しつつ、「これが乱世ならば、わたしだけが生き残るのではなかろうか」とも思うのであった。
いつの世でも、食べ物こそが最大の価値を示す——なんせ、ニンゲンは食べ物によって作られ、維持される生き物なのだから。
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