素人に毛が生えた程度の”にわかピアノ弾き”であるわたしが、さも当然であるかのごとく語るのもおこがましいことではあるが、ピアノを弾くと顔が面白いことになる現象について、あれは「わざとではなく全力の証である」ということを強く訴えたい。
たとえば、ウエイトトレーニングで高重量のバーベルやダンベルを持ち上げる際、10回目の顔は苦痛で歪んでいるだろう。または、急行や快速の電車内で尿意をもよおして、いくつもの駅を通過するのをただただ耐えなければならない間、どう考えても死んだ顔になっているだろう。
もちろん、さほど顔に現れない者もいるだろうが、殊に表情豊かなタイプは内心が顔に出やすい。だがそれは本気で思ったり感じたりしているからこそ、内面が表(顔)に現れてしまうわけで、わざとそういう顔をしているわけではない。
一方で、自分自身の感情については顔に出すのを控える傾向にあるのも事実。仮に、なにか嬉しいことがあってニヤニヤしていたら、「なにアイツ、キモいんだけど・・」となるし、大失恋をしたからとって電車内で号泣すれば「可哀そうだけどヤバイ奴」に認定されるし、他人に伝わらない己の感情を顔に出しても、誰も同調してはくれない。
だが、相手の成功を祝福するのに顔を崩して喜んだり、相手の不幸に思わず涙を流したり、相手に対してより強い感情や想いを抱き、それをしっかりと伝えたいと思えば、表情は自ずと変化するもの。
それは電話越しであっても同じで、受話器の向こうにいる相手へ目を閉じて何度も頭を下げて謝罪をしたり、失敗談を伝えるのに顔を歪めながら必死に説明したりと、目の前に相手がいなくても、「どうしてもこの気持ちを伝えたい」と思うことで、我々の表情は豊かに変化するのだ。
ちなみにこれは、ヒトならではの現象というか特徴でもある。
ヒトには表情筋と呼ばれる筋肉があり、それらが感情と連動して顔面を動かしている。そして、表情筋は哺乳類全般に備わっているが、特に霊長類・・なかでもヒトが最も詳細に表情筋をあやつれるため、先のような顔の変化を繰り出すことができるというわけだ。
要するに、相手に合わせて喜んだり悲しんだり、そういった感情を抱いて表情で示すことができるのが、人間に与えられた特権であり唯一無二の能力なのである。
以上のことからも、ピアノ演奏をする際に、聞いている人へ多くの感情を音に乗せて伝えたい——と思えば思うほど、顔の表情は万華鏡のようにコロコロ変わる。これはピアノに限らず、ヴァイオリニストや歌手のような「顔面がフリーになる演奏者」に共通していえることだろう。
ブラームスの弦楽六重奏(第一番第二楽章)を、ふざけた表情で演奏する弦楽器奏者はいないだろうし、悲恋に嘆き苦しむアリアを満面の笑みで歌い上げる歌手もいない。
これは音楽に限らず、詩や物語の朗読も同じ。明るい話を暗い表情で話したり、緊迫した状況をヘラヘラと語ったり、そんなことは決してしない。その状況にあった表情や声色で伝える——そう、誰かに伝えるために、顔を歪め声帯を駆使して臨場感を露わにするのだ。
とはいえ、「他人事」で演奏を聴いていると、ピアニストやヴァイオリニストの表情が過度なものに感じるのは分からなくもない。
「あんなに眉間にしわを寄せて、無理やり表情を出している」
「自分の世界に酔いしれているのか、わざとらしくて見ていられない」
そう思ってしまうのは、わたし自身にも経験があるので否定はしない。だが、もしもその演奏者が自分に向かって演奏している、言い換えれば「自分に語りかけている」とすれば、その表情について「わざとらしい」などとは言えないはず。
少なくともわたしは、(いかに拙い技術と欠落した音楽センスであったとしても)作曲者の見ていた景色や感じていた心境を、少しでも正確に、それでいて如実に再現するべく必死に鍵盤を叩いている。
その結果、思わず「不細工な変顔」になる可能性は否定できないが、逆にいえば顔面が崩壊するほど伝えたい感情がある・・ということの表れでもあるのだ。
だからこそ、わたしのような素人ではなくプロの演奏家たちの表情が豊かになるのは、それだけ本気かつ真剣に演奏していることの裏付けともいえる。
そう、伝えたいことがあるからこそ顔に出るのだ。
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というわけで、毎回毎回、絶望と希望で疲労困憊となる、師匠による恐怖のレッスンへ向かうわたしなのであった。











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