「自分にはセンスがないから」といって諦めるのは、じつに簡単なこと。
あとは、「体が固いからできない」「怪我のせいで動きが制限されてできない」「フィジカルに恵まれていないからできない」というような、一見どうしようもない理由で諦める・・というのも、わたしからすると愚かでテイのいい”負け犬至上主義”といえる。
足りないから出来ない——そんなのは「当たり前」である。
だからこそ、それを理由に諦めるのは自らの成長を拒否し、未来の可能性から逃げる行為なのだから、「愚か」という以外に妥当な表現がないのだ。
かくいうわたしは、日々「できない自分」を恨み、呪い、卑屈になり、死んだ魚の目になっている。なかでもピアノに関して、その傾向は顕著に表れる。
柔術により酷使された指はしなやかさを失い、中でも左手の人差し指は意図せずして力が入ってしまう——正確には、親指を動かすとそれに連動して人差し指が動いてしまうのだ。
そんな不自由な指のせいで、単純な音階ですら滑らかに弾くことができない。
これは神経反射的なもので、「そうしよう」という意思とは無関係に人差し指がつられてしまうのだ。つまり、意識的に「指を独立して動かそう」と思ったところで、そうすることはできない——そりゃそうだ、思うだけでできるなら、もうとっくに直っているわけで。
それでも、師匠はこう言うのだ。
「イメージするの。そうすると指がかってに動いてくれるから」
そんなバカな話があるか!!こちとら何年・・いや、子どもの頃と合わせて何十年も取り組んできたわけで、それなのにイメージするだけで勝手に動いてくれるだなんて——師匠にはピアノのセンスがあるから、そんな手品みたいなことを簡単にやってのけるんだ。
天才にはできても、凡人にはできない。そんな絶対的な格差を突きつけられた気分になった。
また別の機会に、師匠はこう言った。
「鍵盤を動かすのは下半身だと言ったけど、音を調節するのはココ・・胸のあたりなのよ。気道を広げたり狭めたりするかのように、体内で音量をイメージするとそういう音が出るの」
出た・・またもやイメージか。
わたしは言われた通りに、気道を膨らませたり縮めたりしながら弾いてみたが、案の定、大きな変化はみられない。というより、どうすればそのイメージを抱けるのか・・そもそも「そのイメージ」が湧かないのだ。
(まぁ、これが凡人の末路なのだ。頑張ったところで天才と同じ景色は見えないものなのだ)
*
だが、師匠の言葉を信じなければならないのが弟子の務め。わたしは来る日も来る日も、左手で滑らかに音階を弾くイメージをし、曲を弾く際には胸のあたりで音量を調節するイメージを繰り返した。
そして、来る日も来る日もできるようにならない自分に失望し、それが当たり前にできるピアニストらに嫉妬し、「なぜこんな苦痛を受け続けなければならないんだ!」と自暴自棄になっていた。
そんなある日、わたしは「管楽器を吹くイメージ」で息の量を調節しながらピアノを弾いてみた。
具体的にはホルンやユーフォニアムのイメージなのだが、あれらの楽器は吐く息の量で音の大小が決まるため、コンマ一秒早めの準備が必須となる。無論、ピアノを弾いているのだから実際に息を吐いて音量を調整しているわけではないが、気持ちとしては管楽器を吹いている感覚で、ボリュームや響きをイメージしつつ奏でてみたのだ。
(あ、できたかも・・)
わたしが吹く管楽器の音量が、わたしが弾くピアノの音と連動する感覚が、突如訪れたのだ。
とはいえ、師匠に聞いてもらったわけではないので、ぬか喜びに終わる可能性もある。だが、少なくとも自分自身の感覚としては「掴んだ」という手応えだった。
仮にこれがぬか喜びだったとしても構わない。昨日までのわたしには知り得なかった感覚であり、新たな可能性を手に入れたのだから、これはこれで能力(感覚)の開花である。
そして、仮にこれを「失敗」と呼ぶならば、失敗という経験を重ねることで、いつかそれらが繋がり線となり一つの円になるのだから、散々失敗したほうが確実な成功を手繰り寄せることができるのだ。
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「思えば叶う」という言葉があるが、これも要するにイメージの話だろう。ただ指をくわえて憧れるだけでなく、そうなりたいと願って前へ進むことで自分自身が成長・開花するのだ。
だからこそ、「この不自由な左人差し指でも、いつか必ず滑らかな音階を弾いてみせる」と、強く誓うわたしなのである。











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