こえるようになった「音」

 

わたしは今日、生まれて初めて「打撃音」を聞いた。というか、今までもずっと聞こえていたはずだが、それが打撃音であることに気がつかなかったし、聞き分けようとも思わなかった。

だがようやく、打鍵によって響く「実際の音」ではなく、打鍵音、すなわちハンマーがピアノの弦を叩いた時に出る打撃音を、聞き取ることができるようになったのだ。

 

なぜ今頃、これが急にできるようになったのかというと、前回のレッスンで師匠から「その曲に相応しい音を出しなさい」と言われたことで、音の強さや曲全体の雰囲気を異常に気にするようになった・・というのがきかっけ。

手っ取り早く気づいたのは、思いの丈をぶつけるあまりすべての音がフォルテ(強い音)になっていることだった。そこでわたしはTPOをわきまえる演奏を心がけた。

イメージとしては、ヨーロッパの教会や礼拝堂で聞こえても違和感のない、宗教が持つ神聖かつ荘厳な雰囲気をぶち壊さない——そんな音量であり音質を、徹底的に追及してみた。その結果、ピアノの音には「(ドレミファといった)本来の音」と「打鍵時に発生する打撃音」があることに気が付いたのだ。

 

しかしながら、自分が出す打鍵音というのは聞き逃しがち。なぜなら、曲を弾くことに意識が向いてしまい、なかなか「音」だけに耳を傾けることができないからだ。ところが、たまたま他人の演奏を聴く機会を得たことで、色々な音を知ることができた。

無論、ピアノが上手い下手の話ではないし、心を込めて一生懸命弾いている者を凌辱する意図など一ミリもない。そういう批判めいた戯言ではなく、純粋に「音」へ耳を傾けた結果、二種類の音が聞こえるという事実にたどり着いたのだ。

 

それにしても「意識」というのは不思議なもので、気が付かなければ永遠に気にならないものを、一度意識してしまうと嫌でも気になる・・という性質がある。

その結果、師匠が求める「出すべき音」というものの前後(あるいは左右)には、打鍵が弱すぎてちゃんと音になっていないぼやけた音と、打鍵が強すぎて音程以外の音・・つまり打撃音も同時に発してしまっている場合とがあることを知った。

 

声に例えるならば、通常の会話をするときが「本来の声」だとすると、ボソボソ独り言をつぶやく声と、大声でがなり散らしたり叫んだりするときの声がそれに当たる。

とくに”大声”のほうは、カラオケで張り切って高音を出そうとして声が割れる・・というような、声以外の摩擦音が聞きとれるようになった感じ。

 

そして、この現象を太鼓を叩く動作に置き換えてみたとき、「打鍵=太鼓を打つことだとすると、むやみやたらにバンバン叩くことはしない気がする・・」と、思い始めたわたし。

自宅にあるのはアップライトのアコースティックピアノだが、消音器を入れているため生音は出ない。よって、電子音をヘッドフォンで聞きながら練習しているので、どれほど耳を澄ませたところで「本来出すべき生音」は聞こえてこない。

だが、フェルト製のハンマーがピアノの弦を叩く仕組みは健在のため、打鍵のたびにポクポクと静かな打撃音が聞こえてくる——この感覚を頼りにすればいいんだ。

 

実際に音を聴くことはできないが、それでも「叩きすぎているか否か」くらいは感覚で分かる。

たとえば、少し離れたところからゴミ箱へゴミを放り投げるとき、「なんとなくこのくらいかな」と力の加減を調整するのと同じで、力が抜けてしまい適切な強さで叩けていなかったり、逆に思いっきり叩きつけていたり、そういう過不足を意識しながら打鍵することは可能。

しかも、その意識を持った途端に、今まで何十年も耳を傾けることなどなかった「ポクポク」というハンマーの打撃音が、気になって仕方なくなったのだ。

 

いくつになっても、新しい発見というのいは嬉しいもの。

今まで聞こえなかった音が聞こえるようになった今日が、わたしのピアノにとって新しいスタートとなるのは間違いない。そして、師匠が求める音へと近づくための、遠い遠い旅路をまた一歩進んだのである。