都会で暮らすか、田舎で暮らすか

 

都会と田舎・・とざっくり区別してしまうと語弊があるが、23区のような人口密集地帯で暮らし、人との関わりがドライな環境で社会生活を送っていると、自ずと身に付く習慣がある。それは、他者との距離感というか「過度な干渉をしない」という、ある種の防衛反応である。

対する田舎——イメージとしては、マンションのような集合住宅は少なく、ほとんどが一軒家という地域では、回覧板や公園の掃除といった町内会の慣習があるため、近所同士の距離感が近い。その結果、良くも悪くも人間味が出るためウェットな環境になりがちなのだ。

 

なお、職場におけるドライな環境の良さは、反りの合わない相手と仕事をする際に、「就業時間内の付き合い」と割り切ることで、オンオフを使い分けられるようになる点だ。もちろん、当人がそういったタイプかどうかにもよるが、全体的に”割り切る”という選択をする傾向にある。

要するに、「個の集合体」であることを多くの者が理解(自覚)しているのだ。

 

ところが、ウエットな環境下においては、人と人との距離感が近いことでおせっかいになったり、必要以上に影響を受けてしまったりする。

これもまた、当人次第の部分ではあるが、都会と比べて「昭和な人間関係」を構築しがちな流れが仇となり、無自覚に干渉し合った結果、いつの間にか心が疲弊してしまう——言い換えれば、職場であれ学校であれ何らかのコミュニティ内での関係性が、家族のような一体感を必須としてしまうのだ。

 

ちなみに、都心で暮らしていると、近所に住む者の情報など知らないどころか滅多にすれ違うこともない。同じマンションであっても、隣に誰が住んでいるのかを知らずに過ごす者も少なくないだろう。

いかんせん、集合ポストには部屋番号のみが表示され、男か女か、年寄りか若者か、単身か家族かも分からぬまま、それでも同じ建物内で時を過ごしている。稀にエレベーターで顔を合わせても、目も合わさず無言で気まずい時間を過ごすことになり、まるでデパートやホテルのエレベーターで一緒になった客のように、まさに「赤の他人」なのだ。

そんな環境での生活を続けていると、誰に習うでもなく「個の集合体」という意識が根付く。そんな人種が集まる職場だからこそ、同じ部署やチームであっても、完全なる仲間というよりは「期間限定のパートナー」という意識になるわけだ。

 

しかしながら、他者との距離感が近い田舎では、各家ごとに表札が出ていることで「〇〇さんという人が住んでいる」という情報が得られたり、場合によっては家族全員の名前が記されていることで「〇人家族なんだ・・」と、家族構成まで分かってしまう。

さらに、ゴミ出しの時間が決まっていたり、使用する店やスーパーが同じであったり、生活における行動拠点が制限されることで、否が応でも近所の人間と顔を合わせる機会が増える。そこで立ち話でもしようものなら情報交換の場となり、いつの間にか個人情報が共有されていたり——。

 

だが、これが必ずしも悪いわけではない。

その立ち話により「この前、〇〇さんが××病院へ入っていくのを見た」とか「△△さんの旦那さんは会社を辞めて引きこもっているらしい」などといった、一見どうでもいい噂話であっても、その結果「そういえば最近、姿を見ないわね・・」からの「ちょっと様子を見に行ってみようかしら・・」となり、地域からの孤立や孤独死を未然に防ぐことができる。

これが都会となると、隣人のみならず近所の人間など見ず知らずの他人なわけで、誰がどこで病んでいようが死んでいようが、知る由もない。現に我がマンションでも、過去に孤独死事件があったわけで——。

 

他人からの干渉を避けて孤高な人生を歩むのもアリ。逆に、誰とでも仲良く「人類皆兄弟」を実践するもアリ。

とはいえ、これからの時代は自分自身である程度の方向性を決めて、人間関係における取捨選択が必須となるだろう。そうなると、ヒトという種族の在り方自体も変化するのだろうか——。

 

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