ヒトという生き物は崇高で複雑な仕組みで出来ており、それ故にロジカルに説明できない現象や科学的に未解明の仕組みがたくさんある。その一つに、「イメージすることで、物理的な動きが変わる」という不思議な事実がある。
左脳で理解し、それに沿って体を動かそうとしてもうまくいかないが、右脳でイメージして、それに体を委ねてみたらなぜかうまくいった・・という経験が、わたしはたくさんある。
だが残念なことに、何かに没頭している際には気づくことができず、時が過ぎ去った後で手に入ることが多いため、なんとも意地悪で皮肉な現象なのである。
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年イチシューターのわたしは、所持する散弾銃の更新に必要な手続きの一つである「技能講習」を受講するべく、某射撃場へと向かった。
それにしても、銃を手放さないために年に一度だけ射撃の練習をするなど、本末転倒も甚だしい。どんな競技でも、技術の向上や健康・体力の増進など、建設的な目的のために練習をするものだが、銃に関しては厳格なルールがありそれに従わないと取りあげられてしまうため、所持し続けるためには練習の実績を警察へ証明しなければならないのだ。
「だったら、銃を手放してしまえばいい」というのが普通の考えではあるが、再び銃を所持するとなると面倒な手続きや身辺調査が待っているため、おそらく一度手放したらもう二度と銃を所持することはないだろう
そんな事情もあるため、なんら明確な目的はないにせよ年に一度はクレー(石灰とピッチでできた素焼きの皿)を撃つのが、今のわたしのルーティンとなっているのである。
頻繁に大会へ参加するなど全国行脚をしていた頃は、とにかく「点数」がすべてだった。口や頭では、「ターゲットを狙うことこそが重要だ!」と呪文のように唱えていたが、その裏では「撃ち損じたら1点を失う・・どうにかして当てなければ」という、焦りというかプレッシャーというか、狙うことよりも「外したくない」という気持ちで一杯だった。
その結果、ターゲットを狙うという本来の目的を忘れていることに、あの頃のわたしは気づいていなかった。
話は逸れるが、少し前に「コーンホール(Corn hole)」というゲームを体験する機会があった。穴の開いたロイター板のようなボードに向かって、”ビーンバッグ”と呼ばれるデカいお手玉(豆袋)を投げて点数を競う・・という単純なゲームなのだが、やってみると意外にこれが難しい。
真ん中にそこそこ小さな穴のある、手前下がりの傾斜がついた1メートルちょいのボードがターゲット。地面に置かれたそのボードから5メートル(公式には8.23メートル)離れたところへ立ち、そこからビーンバッグを放り投げて穴へ入れる。そして見事穴に落ちたら3点、ボードに乗ったならば1点がもらえる・・という単純明快なルールだ。
「フンッ!! ロイター板(跳び箱の踏み台)ほどのサイズのボードに、豆袋が乗らないはずがないだろう」
そう鼻で笑いながら、5メートルほど離れた場所からビーンバッグを投げたところ・・なんと、勢い余って向こう側へ滑り落ちてしまったではないか。
(なるほど・・穴へ入れるのが難しいだけでなく、ボードへ乗せるにしても慎重に放る必要があるんだな)
そこでわたしは、ビーンバッグが指先から離れた瞬間から穴までの空間に、架空のパイプを描いてみた。この透明なパイプを通れば、ビーンバッグは安全かつ確実に穴へと到達する——そう、放り投げて終わりではい。うまいことこの軌道に乗せてやることが、このゲームの真髄に違いない、と踏んだのだ。
気持ちとしては、自分の手がびよーんと伸びて、あの穴まで届くくらい長くなっている感じ。すると不思議と安心感が湧いてきて、穴に入るイメージしか起こらなくなった。
そこから4回連続でビーンバッグをホールインワンさせたわたしは、もしかすると”トウモロコシの神”に選ばれし者なのかもしれない。
——そんな記憶が、射撃の途中でふと浮かんできた。そういえば、あの”手が伸びるイメージ”が持てた途端に、「穴に入らないはずがない!」という確信と高揚感に見舞われたんだっけな。クレー射撃も、この手がびよーんと伸びてターゲットを掴みにいく感じで撃てたら、確実に撃破できるんだろうな。
そんなことを思いながら、勢いよく飛び出したオレンジ色の皿を、銃の先から伸びる長い手でつかみにいったところ・・おぉ、キャッチできた!!!
まさに、見えない手が伸びてターゲットを捕まえた感じである。駅のホームへ物を落とした際に使うマジックハンドのような(?)、どこまでも伸びる長い手。それが、十数メートル先を横切るオレンジ色の皿を捕えた瞬間を、わたしは体験したのである。
(あぁ、これが「狙う」ということなのか・・・)
競技者として練習を繰り返していた頃、仮にこのイメージが持てたとして、結果につなげられたかどうかは分からない。なぜなら、この「手が伸びるイメージ」の根源はピアノの弾き方にあるからだ。
ピアノの師匠から「鍵盤を下に押し付けるのではなく、向こう側へどこまでもどこまでも伸びていく腕・・というイメージで弾くのよ」と言われたわたしは、素直にそのイメージで打鍵してみた。すると、たしかに自分自身に詰まるところないというか、体内にあるエネルギーが腕を通じて指先から鍵盤へと伝わっていく感じがあった。それよりなにより、めちゃくちゃ弾きやすい——。
そしてそれこそが、ピアノという楽器の正しい奏で方なのだ。
ピアノでいうところの「弾き方」、そして射撃でいうところの「撃ち方」というものに、正しいとか間違っているというのは、極論を言えば「無い」だろう。伝えたいことが伝わる演奏ができれば、どんな変わった弾き方であっても正解だし、ターゲットを全て撃破できるのであれば、どんな無様な撃ち方でも正解とえる。
だが、見た目の問題ではなく「何がしたいのか」という意識の問題として捉えると、柔らかさや滑らかさ、スピーディーで無駄のない動き・・文字にすると陳腐で当たり前の表現になってしまうが、目的を達成するための「動作としての最適解」はあると思う。
たとえば「金魚すくいで金魚を捕まえること」を思い出してみよう。雑にぽい(金魚をすくう道具)を動かせば、紙が破れてしまったり金魚に逃げられてしまったりする。かといって、慎重にやりすぎれば紙が水分を含みすぎて脆くなったり、金魚をぽいの上に乗せても破れてしまったりするだろう。
そのさじ加減というか塩梅というか、上手にすくうための動作というものは、最終的には似たような挙動や軌跡を描くようになる。だがそれは、動作の見た目を真似した結果ではなく、「金魚をすくう」という目的を追求した答えとして、その動きが正しいとされるのだ。
いかにぽいを己の手のひらとして扱えるか——そのイメージが、金魚すくいのコツなのではなかろうかと、わたしは思うのである。
言い換えると、自分自身がどうなっているのかを知ることで、技術や表現は改善されるのだ。だが、必死に射撃の練習をしていた当時のわたしは、撃ち方・・いわば見た目ばかりを磨いており、「獲物を狙う」という本質を置き去りにしていた。
もしも後悔があるならば、まずは「この手で獲物をつかまえる」という行為を、金魚でも虫でもなんでもいいから、実際にやってみればよかった。そこからイメージを広げて、銃口から空中を通り過ぎターゲットのところまで手を伸ばせばよかった——。
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まさかのタイミングで、今さらながら「狙う」ことの面白さを覚えたわたしは、これからは年イチではなく、せめて月イチシューターを目指してみよう・・と思うのであった。











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